道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2017年07月



   下役ども答う
『この人の語るごとく語りし人は未だなし』 ヨハネ7:46

主イエス・キリストが御在世中のこと、毎年7月15日から7日間、「假蘆(かりいほ)の祭」が行われていた。これは、イスラエル人がエジプトを出た後、40年の間、荒野で天幕を張って暮らしたことを記念する祭であった。7日を終えた翌日の安息日は「祭の終りの大いなる日」と呼ばれていた。


主イエスは祭の半ば頃にガリラヤから来られて、都に着くや否や、宮に立って御言葉を教えられた。ユダヤ人は皆怪しんで言った。「この人は学びしことなきに、如何にして聖書を知るか」と。

主イエスと民と祭司長・パリサイ人との間で暫し論争が繰り拡げられた。群衆のうち多くの人々がイエスを信じて「キリスト来たるとも、此の人の行いしより多く徴を行わんや」と言った。この言葉がパリサイ人の耳に入るや、彼らはイエスを捕えようと下役を遣わした。

そして、祭の終りの大いなる日、安息日を迎えた。主イエスは宮に立って大声で呼ばわり言われた。

『人もし渇かば我に来りて飲め。我を信ずる者は、聖書に云へるごとく、その腹より活ける水、川となりて流れ出づべし』 これは彼を信ずる者の受けんとする御霊を指して言ひ給ひしなり。イエス未だ栄光を受け給はざれば、御霊いまだ降らざりしなり。 7:37~39

此れは、聖霊を受けた人たちが、御霊に満たされて、その口から異言が滔々と流れるが如く語らされ、また霊歌が謳わしめられることを指して言っている。

主の大説教を聞いた人々は口々に言った。『これ眞にかの預言者なり』 『これキリストなり』と。

一方、出自に就いて「この人は、ガリラヤのナザレの人だ。聖書にキリストはダビデの末裔で、ベツレヘム生まれだとあるではないか。だからキリストではない」と訝しがる者もいた。こうして群衆の間に紛争が起きた。

祭司長やパリサイ人の許に下役が戻ってきた。「なぜ彼を捕えぬか」と言うと、下役が答えた。「この人の語るごとく語りし人は未だなし」と。

パリサイ人は、これを聞いて下役を嘲ったが、世の智者、学者には、主イエスが何方であるか、眼に覆いが被されて見えなかった。幼子の如く素直ならずば、神の国を見ることはできない。下役のように心が謙らなければ、神の声を聞きわける耳は開かれはしない。



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西方(にしのかた)にてヱホバの名(みな)をおそれ 日のいづる所にてその榮光をおそるべし

ヱホバは堰(ゐせ)ぎとめたる河の その氣息(いぶき)にふき潰(つひ)えたるがごとくに 來りたまふ可(べけ)ればなり  
イザヤ58:19

先週の安息日礼拝を終えた後、秋田教会の喜瀬静子先生が前日の夕刻に86歳で召されたと教団本部からお知らせを頂いた。

残念ながら7月10日の告別式に出られず、お祈りして弔電を送らせて頂いたが、同年生れの先生が天国に凱旋されて、聊か感慨深いものがあった。

喜瀬先生は沖縄の読谷教会の出身で、日本聖書大学院を卒業されたのち、秋田で伝道を始められ、水と霊に熱心で、大聖会の講壇の御用では火を吐かんばかりに「水と霊!」を語っておられた姿を思いだす。

以前、6月の北海道大聖会のあと、秋田教会で祝福祭が2度3度あり、帰路に当たる先生方が出席して、東北の伝道の為に祈って行かれた。

そうするうちに、秋田教会で東北大聖会が開かれるようになったので、本格的に集うようになり、私も信者方に声をかけ、毎年出席したのである。

ある年の事、早めに出発して前日に着いたので「何かお手伝いすることがありますか」と喜瀬先生に尋ねると、大聖会のための講壇の御言葉を書いて欲しいということであった。

主の用が与えられたので、会堂の二階の部屋で準備されていた大きな紙を拡げ、祈りつつ筆を執って記したのが、前述の御言葉である。 再度、記そう!

「西方にてエホバの名をおそれ 日のいづる所にてその榮光をおそろべし
ヱホバは堰ぎとめたる河の その氣息にふき潰えたるがごとくに 来りたまふ可ればなり」     
                          イザヤ書第五八章一九節

何と力に漲った神の御言葉であろうか。末の世に日の出る国 日本に興った水と霊の福音は、今や全世界に向って怒涛の如き勢いをもって流れていく。

喜瀬先生も秋田教会の信者方も、港と教会を車で往復して、外国船員の伝道を一生懸命に為されていた姿を思い出す。

今は、時を経て陸奥大聖会が行われるようになり、東北も様変わりした感があるが、当時出席した者たちにとっては記憶に残る大聖会であったと思う。


斯て彼らに言いたまふ 『全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣傳へよ。信じてバプテスマを受くる者は救はるべし。然れど信ぜぬ者は罪に定めらるべし。信ずる者には此等の徴、ともなはん。即ち我が名によりて悪鬼を逐ひいだし、新しき言(ことば)をかたり、蛇を握るとも、毒を飲むとも、害を受けず、病める者に手をつけなば癒えん』
語り終へてのち、主イエスは天に挙げられ、神の右に坐し給ふ。弟子たち出でて。徧く福音を宣傳へ、主も亦ともに働き、伴ふところの徴をもて、御言(みことば)を確ふし給へり 
マルコ16:15~20

これは、復活された主イエス・キリストが、昇天されるに際して弟子たちに語られた御言葉である。と同時に、私たち全てに対して語られた御言葉である

主は先ず、全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣傳へよと言い給うた。何の福音か。水と霊の全き福音である。

主は、人は新たに生まれずば神の国を見ること能はず、人は水と霊とによりて生まれずば神の国に入ること能はず、と言い給うた。ヨハネ3:3,5 而して復活された主は弟子たちに息を吹きかけて言い給うた『聖霊を受けよ』と。ヨハネ20:22 
そして、御昇天後のペンテコステの日の聖霊降臨を待ち望めと言われたのである。

バプテスマ

バプテスマのヨハネは、悔改めのための水のバプテスマを施したが、主イエス・キリストのバプテスマは、聖霊と火とによってバプテスマを施し、かつイエス・キリストの名に由る罪の赦しを与える水のバプテスマを施されたのである。これは、完璧な救いであり、神の愛と憐みに基づく賜物である。

主は、信じてバプテスマを受くる者は救わるべし、然れど信ぜぬ者は罪に定めらるべしと言われた。故にバプテスマを受けることは、救いに必要なことであって、イエス之御霊教会の信者は皆主の御言葉に從い、感謝して受けているところである。

信ずる者には此等の徴、ともなはん。

・我が名によりて悪鬼を逐ひいだし、

偶像教には悪霊が付き物である。偶像に手を合わせる人は知らずして悪霊を拝んでいるのである。何か良いことがあれば、ご利益だと言って愈々深みに嵌まり込んでいく。世に言う宗教は、これを利用して無知な人々からお金を絞り取るのである。

これから、抜け出る方法はただ一つ、水と霊を受けて、牧師に主イエス・キリストの名によって偶像の聖別をしてもらえば、綺麗さっぱりするのである。救われて初めてイエス様が真の神様だと知るのである。

・新しき言(ことば)をかたり、

聖霊を受けると、徴として異言を語らせられる。ペンテコステの日に120人の弟子たちが聖霊を受け、異なる国言葉を語ったように、異言が口から出て、聖霊が内住したことを証される。
使徒行伝2:4,33 10:44~46 19:6 コリント前12:10 同14:15

・蛇を握るとも、毒を飲むとも、害を受けず、

パウロがマルタ島で難破後、柴を火にくべたとき、熱によって蝮(まむし)が出て手についたが、何の害も受けなかったとある。使徒28:3~6
沖縄の教会ではハブに噛まれたが、助かったという証を聞いた。

間違いで子どもが毒を飲み、あわてて教会に飛び込み、お祈りしてもらったら助かり、これが機縁で家族中が救われた証がある。また信者なのに人生問題に悩んで毒を飲んだが、異言の祈りが出てきて、それと共に胃の内容物が吐き出され、信仰に立ち返った証を聞いた。

・病める者に手をつけなば癒えん

使徒行伝には、弟子たちによって多くの癒しの業がなされた証が記されている。

教会では、癒しを求める信者方に牧師がオリーブ油を塗り、頭に手を按き、主イエス・キリストの御名によって神癒祈祷を行っている。イエス様が癒やしの御業を行ってくださる。

主も亦ともに働き、伴ふところの徴をもて、御言を確うし給へり

昇天された主は、天の處から弟子たちの伝道をご覧になり、地にて繋ぐところは天において繋ぎ、地にて解くところは天において解き、天と地が相呼応して、福音の発展がなされていった。
私たちの伝道も同じく、主が奇蹟・不思議・徴を行って押し進められていくものである。



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『キリスト・イエス罪人を救はん為に世に來り給へり』とは、信ずべく正しく愛くべき言(ことば)なり、其の罪人の中にて我は首(かしら)なり。 テモテ前1:15


パウロが弟子のテモテに贈った書の中で、救われる以前の自分を述懐し、今は主イエス・キリストにありて働く恵みを与えられていることを感謝している。

「われ曩(さき)には瀆(けが)す者、暴行の者なりしに、我を忠實なる者として、この職(つとめ)に任じ給ひたればなり」 同1:13

ステパノが石打の刑をもって殉教の死を遂げた時、サウロ(パウロ)は、ステパノの衣を足元に置き、その殺されるを可しとした。 使徒7:38、8:1

彼は、キリキアのタルソで生まれたユダヤ人で、エルサレムで育ち、パリサイ人の教法学者ガマリエルの足元で律法の厳しき方に遵いて教えられ、神に対して熱心な者であった。然しそれは神の智慧と知識によるものではなかった。 使徒22:3

余勢を駆って、彼は愈々主の弟子たちを恐喝(おびやか)し、殺害しようとして、矛先をダマスコにいる弟子たちに定め、行って捕縛し、エルサレムに連行しようと企て、大祭司の許に行き、ダマスコにあるユダヤ人の諸会堂に協力してもらうよう添書(そえぶみ)を請うた。 9:1,2

ダマスコに近づいたとき、天より光いでて、彼を環(めぐ)り照らし、『サウロ、サウロ、何ぞ我を迫害するか」』と「いう声を聞いた。「主よ、なんぢは誰ぞ」と問うと、「われは、汝が迫害するイエスなり。起きて町に入れ、さらば汝なすべき事を告げらるべし」と主が答えられた。 9:3~6

眩い光の為に盲目となったサウロの許へ主はアナニヤという弟子を遣わして言われる。『往け、この人は異邦人・王たち・イスラエルの子孫の前に我が名を持ちゆく我が選びの器なり』 と。そして、アナニヤの導きにより、サウロは再び見ることを得、聖霊にて満たされ、バプテスマを受けたのである。 9:12~19

主によって回心したサウロは、直ちに諸会堂にて、イエスの神の子なることを宣べ伝えた。聞く者は皆驚き、「こはエルサレムにて此の名をよぶ者を害(そこな)ひし人ならずや、又ここに來りしも之を縛りて祭司長らの許に曳きゆかんが為ならずや」と言った。サウロはますます能力(ちから)加わり、イエスのキリストなることを論証した。 9:20~22

実に鮮やかな変身である。「人よりに非ず、人に由るに非ず、イエス・キリスト及び之を死人の中より甦へらせ給ひし父なる神に由りて使徒となれるパウロ」と彼は云う。 ガラテヤ1:1

パウロが語る福音も、「人に由れるものにあらず、我は人よりこれを受けず、また教へられず、唯イエス・キリストの黙示に因れるなり」と証する如く、12使徒や他の人々から聞いたものではなく、主の御霊によって教えられたものであった。 同1:11,12

このように思う時、サウロまたの名はパウロの心の中に去来するものは、「われ信ぜぬ時に知らずして行ひし故に憐憫(あはれみ)を蒙れり。而して我らの主の恩恵(めぐみ)は、キリストイエスに由れる信仰および愛とともに溢るるばかり彌(いや)増せり」とある。 テモテ前1:13下、14

そして、『キリスト・イエス罪人を救はん為に世に來り給へり』とは、信ずべく正しく受くべき言なり、其の罪人の中にて我は首なり。然るに我が憐憫を蒙りしは、キリスト・イエス我を首に寛容をことごとく顕し、この後、かれを信じて永遠の生命を受けんとする者の模範となし給はん為なり。と記した。15,16節

主の聖徒を殺害するという大罪を犯した罪人の首ですら憐みを受けて救われるのなら、まして多くの人々が救われない訳がないではないか、と彼は言うのである。

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