道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2017年08月

           
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我は福音を恥とせず、この福音はユダヤ人を始めギリシャ人にも、凡て信ずる者に救を得さする神の力たればなり。神の義はその福音のうちに顕れ、信仰より出でて信仰に進ましむ。録して 『義人は信仰によりて生くべし』とある如し。
  ロマ1:16,17



パウロが殊更に「我は福音を恥とせず」と言ったのは、心弱き人の中には恥と思う者もいたからである。事実、福音を語れば迫害され,捕えられて、二度と主イエスの名で語るなと脅かされ、鞭打たれ、牢獄に繋がれ、罪人同様の仕打ちを受ける者もいたのである。
 
そういう人たちの中に在って「我は福音を恥とせず」と言えたのは、福音の価値を知り、この福音の外に人を救い得る者はないという確信があり、その元となる神の力を体得していたからに他ならない。

言葉を返せば、寧ろ「我は福音を誇りにする」ということである。宇宙のどこを探してもこれ以外にはない完璧な福音をイエス様が生みだし、委ねてくださったのだから大感謝して宣伝えさせて頂こうということである。

私たちが、主イエス・キリストから委ねられた福音は、世界に冠たる唯一無二の福音である。ペテロが 『他の者によりては救を得ることなし、天の下には我らの頼りて救はるべき他の名を、人に賜ひし事なければなり』と記した如くである。 使徒4:12

この福音こそ「水と霊」の真の福音であり、福音と言えば「水と霊」をおいて外にない。ペテロにせよパウロにせよ、初代教会の使徒たちは皆斯く語り、宣教したのである。

私たちが人々に伝道していく時に、特にクリスチャンといわれる人々に証をしていく時に感じるのは、主が私たちの手に委ねてくださった水と霊の福音が如何に素晴らしいものであるかである。

一般のクリスチャンは、主が十字架に懸かり罪の贖いを為してくださったことを信ずれば、即救われたというのである。だが、これでは中途半端である。福音の全容を知らないのである。盲人もし盲人を手引きせば、二人とも穴に落ちんとは、主の言葉である。

パウロがエペソの信者たちに会った時に「なんぢら信者となりしとき聖霊を受けしか」と問うた。彼らは「いな、我らは聖霊の有ることす聞かず」と答えた。彼らの師であるアポロがヨハネの名によるバプテスマより他に知らなかったからで、弟子はその師に勝らずということであろう。そこでパウロは、主イエスの名によるバプテスマを教え、彼らはそれに從った。そしてパウロの按手により聖霊を受け、異言を語り、かつ預言したのである。 使徒19:1~8 ここに水と霊の福音は彼らの上に成就され、彼らは救われたのである。

聖書に記された通りに行うのが、神の道であり、人として救いを得るために賢明な道ではないか。





其は汝は汝の神ヱホバの聖民(きよきたみ)なればなり 汝の神ヱホバは地の面の諸々の民の中より汝を擇(えら)びて己の寳(たから)の民となしたまへり ヱホバ汝らを愛して汝らを擇びたまひしは 汝らが萬(よろず)の民よりも數(かず)多かりしに因るにあらず 汝らは萬の民の中にて最も小き者なればなり               申命記7:7:6,7

主なる神は、御自身の栄光を顕わすために、世の中より愚かな者、弱き者、卑しき者、軽んぜらるる者、即ち無きが如き者を選んで教会に入れてくださった。これは神の前に人が誇る事がなからんためである。 コリント前1:26~31

斯く小さき者であるが、主の恵みは常に共に在り、案ずることなく、憂うることなく日々歩むことができるのは、恩寵という外はない。

去った一週間も、合同喜霊祭に始まり、大勢の兄弟姉妹が集い、祈りと讃美の時を持った。講壇の御言葉<ヨハネ11:25,26>を仰ぎ見つつ、胡蝶蘭の香がほのかに流れる会堂で主を崇めた。

それに続く1週間は、洗礼式場の水を入れ替え、水と霊の救いがなされ、身代わり洗礼がなされて大感謝であった。教会は先ず水と霊が為されることが一番素晴らしい。

家の祝福祭と喜霊祭もあった。親から譲り受けた家をリフォームして立派にし、住まわれるのである。感謝なことだと聖名を崇めた。申命記6:10~12の御言葉を開いて拝読したのである。ハレルヤ!

懼るな小き群よ、なんぢらに御國を賜ふことは、汝らの父の御意なり。
 ルカ12:32


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(からだ)は一つにして肢(えだ)は多し、體の肢は多くとも一つの體なる如く、キリストも亦然り。我らはユダヤ人・ギリシャ人・奴隷・自主の別(わかち)なく、一體(いったい)とならん為に、みな一つ御霊にてバプテスマを受けたり。而してみな一つの御霊を飲めり。          コリント前12:12,13

先日、安息日礼拝を終えた夕方、教会の近くにある JICA(ジャイカ=国際協力機構)から西アフリカの方が訪ねて来られた。お話によると、その少し前に東京で水と霊を受けて救われたばかりの兄弟だった。「北海道へ行く」と話したら、道央教会を紹介してくださったということで感謝であった。JICAには色々な国の人たちが来ているのだが、この兄弟も短期間であるが北海道で農業を研修し、自国の発展のために役立つ目的で来られた方であった。

翌日の日曜聖会に集われるように勧めたところ、アフリカの別の国の女性の方を連れて来られた。

幸いに英語に堪能なM姉妹が出席されたので、通訳をお願いし、英語の聖書や、ローマ字の霊讃歌を用いて福音を語り、姉妹に聖霊待望を勧め、祈って受霊され、異言で祈られたのである。洗礼については既に主イエス・キリストの名による浸礼を受けているということであった。

こうして、他国の方に伝道できたことを感謝している。

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2013年に沖縄大聖会に行った時、A先生が講壇の御用の中で霊讃歌101番を選んで讃美された。

1節の歌詞は  ♪ 北の果なる 氷の山も  椰子の実みのる 南の国も
            御神の愛に 楽しみ尽きぬ  国を望みて 歌は流れぬ ♪

南国沖縄に相応しい歌だなと思いながら歌ったのだが、大聖会が終わって別れの挨拶を交わした時に、この先生ははにかみの笑みを浮かべて、こうおっしゃったのである。「遠い所からお出で下さってありがとうございます。あの讃美は、遠い北海道から来て下さった先生方の事を思って選んだのですよ」

互に相手の事を思いながら歌ったのである。「己の事を思いみず、人の事を思いみよ」とは聖書の教える所であり、そのようにして歩むのは幸いなことだと思ったのである。

日本の北と南の果てとは3000キロ離れているが、主イエス様の一つ御霊を飲んだ者たちは、たとえ世界のどこにいようと時間・空間を超えて、御霊によって一体なのだと感じたのである。





 
                                                                おのが富をたのみ 財(たから)おほきを誇るもの たれ一人おのが兄弟(はらから)をあがなふことあたはず 之がために贖價(あがなひしろ)を神にさゝげ 之をとこしへに生存(いきながら)へしめて朽ざらしむることあたはず 霊魂(たましひ)をあがなふには費(つひえ)いとおほくして 此事をとこしへに捨置(すておか)ざるを得ざればなり) 詩篇49:6〜9


ヱホバは人なきをみ 中保(なかだち)なきを奇(あや)しみたまへり  斯てその臂(かひな)をもてみづから助け その義をもてみづから支へたまへり イザヤ書59:16


それ神は唯一なり、また神と人との間の中保も唯一にして、人なるキリスト・イエス是なり。彼は己を與へて凡ての人の贖價(あがなひ)となり給へり、時至りて證せらる。                          テモテ前書2:5,6

 
至高き神と人の間に立てるのは、大祭司イエス・キリストをおいて外にはない。「かのノア、ダニエル、ヨブの三人そこにをるもその子女(むずこむすめ)を救うことを得ず 只その義(ただしき)によりて己の生命(いのち)を救うことを得るのみ」 と記されたる如くである。    エゼキエル14:14,16,18,20


主イエス・キリストが私たちを罪と咎の中から救って下さったことを感謝する。いつも恵みと祝福の中を歩ませていただいているが、主が私たちの為に十字架に懸かり、贖いの業を為し遂げてくださったお蔭であることを忘れてはならないと思う。


それはまた、自分自身が主の物になり、最早自分の為に生きるのではなく、主のために生きる者であると、絶えず心を新たにし、主の御霊に導かれて行くことである。 


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