我は福音を恥とせず、この福音はユダヤ人を始めギリシャ人にも、凡て信ずる者に救を得さする神の力たればなり。神の義はその福音のうちに顕れ、信仰より出でて信仰に進ましむ。録して 『義人は信仰によりて生くべし』とある如し。 ロマ1:16,17
パウロが殊更に「我は福音を恥とせず」と言ったのは、心弱き人の中には恥と思う者もいたからである。事実、福音を語れば迫害され,捕えられて、二度と主イエスの名で語るなと脅かされ、鞭打たれ、牢獄に繋がれ、罪人同様の仕打ちを受ける者もいたのである。
そういう人たちの中に在って「我は福音を恥とせず」と言えたのは、福音の価値を知り、この福音の外に人を救い得る者はないという確信があり、その元となる神の力を体得していたからに他ならない。
言葉を返せば、寧ろ「我は福音を誇りにする」ということである。宇宙のどこを探してもこれ以外にはない完璧な福音をイエス様が生みだし、委ねてくださったのだから大感謝して宣伝えさせて頂こうということである。
私たちが、主イエス・キリストから委ねられた福音は、世界に冠たる唯一無二の福音である。ペテロが 『他の者によりては救を得ることなし、天の下には我らの頼りて救はるべき他の名を、人に賜ひし事なければなり』と記した如くである。 使徒4:12
この福音こそ「水と霊」の真の福音であり、福音と言えば「水と霊」をおいて外にない。ペテロにせよパウロにせよ、初代教会の使徒たちは皆斯く語り、宣教したのである。
私たちが人々に伝道していく時に、特にクリスチャンといわれる人々に証をしていく時に感じるのは、主が私たちの手に委ねてくださった水と霊の福音が如何に素晴らしいものであるかである。
一般のクリスチャンは、主が十字架に懸かり罪の贖いを為してくださったことを信ずれば、即救われたというのである。だが、これでは中途半端である。福音の全容を知らないのである。盲人もし盲人を手引きせば、二人とも穴に落ちんとは、主の言葉である。
パウロがエペソの信者たちに会った時に「なんぢら信者となりしとき聖霊を受けしか」と問うた。彼らは「いな、我らは聖霊の有ることす聞かず」と答えた。彼らの師であるアポロがヨハネの名によるバプテスマより他に知らなかったからで、弟子はその師に勝らずということであろう。そこでパウロは、主イエスの名によるバプテスマを教え、彼らはそれに從った。そしてパウロの按手により聖霊を受け、異言を語り、かつ預言したのである。 使徒19:1~8 ここに水と霊の福音は彼らの上に成就され、彼らは救われたのである。
聖書に記された通りに行うのが、神の道であり、人として救いを得るために賢明な道ではないか。