道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2017年09月

                    2017-09-23 ヨセフ


ヱホバ、ヨセフとともに在す 彼享通者(さかゆるもの)となりてその主人なるエジプト人の家にをる その主人ヱホバの彼とともにいますを見またヱホバがかれの手の全てなすところを享通(さかえ)しめたまふをみたり ・・・ 彼ヨセフのその家とその有(もて)る凡の物をつかさどらせし時よりして ヱホバ、ヨセフのために其エジプト人の家を祝(めぐ)みたまふ 即ちエホバの祝福(めぐみ)かれの家と田(はたけ)に有るすべての物におよぶ 
創世記39:2,5 

ヨセフは17歳の時、夢を見た。田で刈った束を置いたところ、兄弟たちが刈った束がヨセフの束を拝したのである。次に見た夢は日と月と11の星がヨセフを拝したというものである。これはヨセフに関わる神の預言であった。父の解き明かしは、父と母と兄弟とがヨセフを拝するようになるということだった。それ故に彼は兄弟から憎まれる者となった。 

ヨセフの生涯は、主イエス・キリストの生涯に重ね合わせてみることができる。

主が神の愛する独子として生まれ給い、神の国を宣べ伝え、義の道を歩まれたが故にユダヤ人から疎まれたように、ヨセフも父ヤコブの年寄子として、而もヤコブの最愛の妻ラケルから生まれ、特別に愛されて育てられたので、兄弟の悪事を父に告げたので憎まれたのである。

兄たちはヨセフを捕えて銀貨20枚でミデアン人に売った。主が銀貨30枚で売られた如くである。そして買われて行った先がエジプト人ポテパルの家であった。身は奴隷であろうとも、神の恵みと約束は変わらず、益々栄える者となって行く。祝福と云うものは事情や環境などによって変わるものではなく、上から来るものであり、神が定めた故に、人が変えることはできない。

この後、彼はポテパルの妻が仕掛けた誘惑を拒絶したことから、誤解曲解を生み、牢獄に繋がれる身となるが、ここでも神は憐みを加えて典獄から恵みを得て、囚人の扱いを皆任せられたのである。

  ヨセフはうられて僕となれり ・・・ ヱホバのみことば彼をこゝろみたまへり 
                                          詩篇105:17,19

この後、ヨセフはエジプト王パロが見た夢を神の霊によって解き、7年の豊年と7年の凶年があるから穀物を蓄えて備えをするように進言し、その役職に最適な人として王に用いられ、遂には王に次ぐ宰相となった。

飢饉は激しく、周囲の国にもおよび、ユダヤの地も同様であった。ヤコブは息子たちにエジプトに行って穀物を買ってくるように言う。 ヨセフはその人たちを見て兄と分かったが、兄たちにはヨセフとは分からなっかった。互に通訳を用いたからである。

2度目の時に、ヨセフはへブル語で自分の身を兄弟たちに明かす。驚く兄たちにヨセフは言う 「我はなんぢらの弟ヨセフ なんぢらがエジプトにうりたるものなり されど汝等我をこゝに売しをもて憂ふるなかれ 身を恨るなかれ 神生命(いのち)をすくはしめんとて我を汝等の前につかはしたまへるなり ・・・ 神汝等の後を地につたへんため また大なる救をもて汝等の生命を救はんために 我を汝等の前に遣したまへるなり 然ば我を此(ここ)につかはしたる者は汝等にあらず神なり」 創45:4~8

神の計画は遠大である。多くの国民を救いに至らしめる為に、私たちを先に選んでくださったのだ。先週も水と霊が教会で行われた。また次に続く魂が送られてくることを望んでいる。

       

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(ここ)にイエス答へて言ひたまふ 『をんなよ、汝の信仰は大なるかな、願のごとく汝になれ』 娘この時より癒えたり。 マタイ15:28

主イエス様がツロとシドンの地方へ行かれた時のこと、ここは地中海に面したフェニキュアの都市であり、從って異邦人の町であった。思うに、主はここにも救いを求めるイスラエル人がいるのではないかと思い伝道に行かれたのではなかろうか。

すると、この地に住むカナン人の女が出てきて、イエス様に叫んで言った 『主よ、ダビデの子よ、我を憐み給へ。わが娘、悪鬼につかれて甚く苦しむ』と。

お腹を痛めて生んだ娘が、悪鬼に憑かれてしまった。発狂状態で、まともに生きて行くことはできない、どうしたものかと思い、悩んでいるときに、主イエスが来られたと聞き、助けて欲しいの一念で駆けつけてきたのである。

然し、イエスは一言も答え給わず、取り合おうともされない。弟子たちが来て 『女を帰したまへ、我らの後より叫ぶなり』と請うた。

主は、弟子たちに答えて言い給うた 『我はイスラエルの家の失せたる羊のほかに遣されず』 

主のお言葉のごとく、福音は、神によって祝福を約束されたアブラハムと、その子孫であるイスラエル人のために備えられたものであった。主は先ず己の国にきたり、己の民を救う目的で来られたのである。異邦人は蚊帳の外であった。

女がきて主を拝して何度も言った 『主よ、我を助けたまへ』 主は答えて言われた 『子供のパンをとりて、小狗(こいぬ)に投げ與ふるは善からず』

子供とは、選民であり、先祖の故に神に愛されたイスラエルの人々である。その人々のために備えられた神の祝福を、異なる異邦人である神々を拝み、これに仕える小狗のごとき卑しく汚れた異邦の者に投げ与えるのは、道に外れていると言われたのである。

女は言った 『然り、主よ、小狗も主人の食卓よりおつる食屑を食ふなり』

彼女は、自分は神の恩寵を受けるに値しない異邦人の女であることを知っていた。それでも、おこぼれでも良いから恵みに与りたいと願ったのである。

その信仰が主の心を打ち、ゆり動かした、感動させたのである。信仰なくしては神に悦ばるること能はずである。

爰にイエス答へて言ひたまふ 『をんなよ、汝の信仰は大なるかな、願のごとく汝になれ』 娘この時より癒えたり。




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                  村井じゅん先生 昭和27年9月


わが霊魂(たましひ)よヱホバをほめまつれ わが衷なるすべてのものよ そのきよき名(みな)をほめまつれ わがたましひよヱホバを讃(ほめ)まつれ そのすべての恩恵(めぐみ)をわするるなかれ
ヱホバはなんぢがすべての不義をゆるし 汝のすべての疾(やまひ)をいやし なんぢを生命(いのち)をほろびより贖ひいだし 仁慈(いつくしみ)と憐憫(あはれみ)とを汝にかうぶらせ なんぢの口を嘉物(よきもの)にてあかしめたまふ 斯てなんぢは壮(わかや)ぎて鷲のごとく新になるなり

詩篇103:1~5

今年も9月が巡ってきた。いつも救われた日のことを思い浮かべて感謝を新たにしている。

今より遡ること65年前の昭和27年9月10日から14日までの5日間、私は自宅とは目と鼻の近さにある札幌UPC教会で開かれた「真のキリスト教特別伝道集会」に導かれ、講師として来会された東京イエス之御霊教会牧師 村井じゅん先生(初代監督)の説教を聴き、主イエス・キリストを信じ、勧められるままハレルヤと祈って、異言の徴の伴う聖霊を受け、最終日に豊平川で主イエス・キリストの御名による水のバプテスマを受けて、全き救いに与ったのである。その日大空一杯に広がり、水面に映った茜雲は終生忘れ得ぬ絶景だった。

思えば当時前後して2年半ばかり肺結核と休学、再発と心臓病発作のために人生を棒に振り、青春は無く、お先真っ暗で、廃人同然の役立たつだと思い、床に伏していた。だが、突然夏頃から周囲が鳴動し始めた。教会の伝道が始まったのである。そして主は私を見出してくださり、素晴らしい救いを体験したのだった。

聖書の内容も知らず、教会の事も知らず、なにもかも知らなかった私である。無学の凡人であるが、然し、体験は教理に先立つとの言葉のごとく、直接イエス・キリストに触れることができ、救いの喜びを得たのである。

上記の御言葉を開き、一語一句拝読し、味わって見るに、一つとして欠けることなくわが身の上に成就されたが故に、誠にアァメンである。

最後の5節にに「壮ぎて鷲のごとく新になるなり」と記されている。<鷲>は、大型の猛禽類であり、鳥類の王者であろう。遠くまで見渡せる目と地中まで嗅ぎ分ける臭覚と、力強い翼と鋭い嘴と爪を持ち、狙った獲物は逃さず捕える智慧と力とに満ちている。それ故に聖書の中に多く出てくるのだと思う。

その鷲が子を巣立たせる場面を描いた聖句がある。これは同時に父なる神と人の子なる私たちの関係を描いてもいる。

「鵰(わし)のその巣雛を喚(よび)起し その子の上に翺翔(まひかける)ごとく ヱホバその羽を展(のべ)て彼らを載せ その翼をもてこれを負(おひ)たまへり」 申命記32:11
 
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  ◎ 管理人の証 → 別ブログ: 道央イエス之御霊教会 御霊の声 証ー1 

          
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兄弟の愛を常に保つべし。旅人の接待を忘るな、或人これに由り、知らずして御使を舎(やど)したり。己も共に繋(つな)がるごとく囚人(めしうど)を思へ、 へブル13:1~3


救いと共に大切なのは歩みの問題である。
もし我ら御霊に因りて生きなば、御霊に由りて歩むべし、とある。 ガラテヤ5:25
私たちの信仰は行動に移すことによって生きたものとなり、クリスチャンとして証のある生活をすることができるのである。 ヤコブ2:17参照

旅人を舎した出来事といえば、アブラハムが三人の旅人を迎えて持て成した話を思い浮かべることだろう。 創世記18章 ここでアブラハムは、信仰を行動に移したのである。

アブラハムが天幕の入口に座っていると、目の前に三人の人が立っていたので、走り出て迎え、「通り過ぎないでください」と呼び止め、足を洗い、木の下で休ませたのである。そしてサラにパンを焼いてもらい、自分は子牛を屠て、若者に調理させ、牛酪と牛乳を添えて、木陰で休んでいる三人の旅人を持て成したのである。その三人とは、一人は神であり、二人は御使いであったが、人の姿形をしていたので、彼はそうとは知らなかったのである。

彼は、そこで祝福に与ることになる。その場で、その一人である神からアブラハムは二つの秘密を聞かされた。一つは来年の今頃、妻サラに男の子が生まれること、もう一つは甥のロトが住むソドムの町が滅びることであった。

アブラハムの懇願により、ロトと二人の娘は天からソドムの町に火が降った時に、滅びから救われ、また一年後には約束の子イサクが生まれたのである。 「神の言い給いしことは必ず成るべし」である。

もう一つ、主イエス様の御言葉を拝読しよう。

人の子その榮光をもて、もろもろの御使を率ゐきたる時、その榮光の座位(くらゐ)に坐せん。斯て、その前にもろもろの國人あつめられん、之を別つこと牧羊者(ひつじかひ)が羊と山羊とを別つ如くして、羊をその右に、山羊をその左におかん。 爰に王その右にをる者に言はん 「わが父に祝せられたる者よ、來りて世の創(はじめ)より汝等のために備へられたる國を嗣げ。 なんぢら我が飢ゑしときに食はせ、渇きしときに飲ませ、旅人なりし時に宿らせ、裸なりしときに衣せ、病みしときに訪ひ、獄(ひとや)に在りしときに來りたればなり」 爰に正しき者ら答へて言はん 「主よ、何時なんぢの飢ゑしを見て食はせ、渇きしを見て飲ませし。何時なんぢの旅人なりしを見て宿らせ、裸なりしを見て衣せし。何時なんぢの病み、また獄に在りしを見て、汝にいたりし」 王こたへて言はん 「まことに汝らに告ぐ、わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは、即ち我に為したるなり」 マタイ25:31~40

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