道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2017年10月

             2017-10-27 P1040795 a


なんぢを祝するものは福祉(さいはひ)を得 なんぢをのろふものは災禍(わざはひ)をかうむるべし  民数記略24:9下

モアブの王バラクは大地を舐めるように進んでくるイスラエルの民を懼れた。そこでメソポタミアの占い師であるバラムに使者を遣わし、招いてイスラエルを呪わせようとした。

使者たちは礼物を携えてバラムを訪れた。バラムが一行を一晩泊めさせて神に問うと「彼らと共に往くべからずまたこの民を呪うべからず是は祝福(めぐま)るゝ者たるなり」とのお言葉であったので、彼らを帰した。本当の所は、神の民を呪うべきではないので、神に問うまでもなく、初めから断るべきだった。ここに世の富に目が眩んだバラムの優柔不断さが現れている。

すると、バラクは前の者よりも尊い使者を多く遣わし、更に多くの物を与えるからきてくれるようにと言ったので、バラムは誘惑に負け、従者を連れてロバに乗り、バラクのもとへ向かった。禍害(わざわひ)なるかな、彼らはカインの道にゆき、利のためにバラムの迷にはしり・・・  ユダ11  バラムの謀計(はかりごと) 民數31:16 

これを見て、神は怒りを発し、神の御使いが剣を手にして道に立った。バラムには御使いが見えなかったが、ロバには見えた。ロバは怖れて進退窮まり地面に伏した。バラムは怒ってロバを杖で打った。

ロバが口を開いて、「なぜ私を三回も叩くのですか」と言った。ここにおいてバラムの目が開かれ、御使いが剣を持って敵せんと立っているのが見え、身を屈めて平伏した。

結局のところ、バラムはバラクの許に行くが、神が授けた言葉のみ語れと命令を受けた。

バラムはバラクの前で三度神に祈った。すると御言葉が来た。いずれもイスラエルを祝福するとの預言であった。

「神の詛(のろ)はざる者を我いかで詛ふことを得んや ヱホバの呪(いの)らざる者を我いかで呪ることを得んや・・・」  23:8~10

「我はこれがために福祉(さいはひ)をいのれとの命令(おほせ)を受く 既に之をに福祉をたまへば我これを變(かふ)るあたはざるなり・・・」  23:20~24

「ヤコブよ汝の天幕は美しき哉 イスラエルよ汝の住居(すまひ)は美しき哉・・・なんぢを祝するものは福祉を得 なんぢをのろふものは災禍(わざはひ)をかうむるべし」  24:5~9

ここにおいてバラクは怒りを発し、バラムよ帰れ!という。別れに際してバラムは一つの預言を語った。

「ヤコブより一箇(ひとつ)の星いでんイスラエルより一條(ひとすぢ)の杖おこり」と 24:17   これぞ救い主イエス・キリスト出現の預言である。

バラムは、バラクに教え、彼をしてイスラエルの子孫の前に躓きを置いた為に、イスラエル人によって殺害された。 31:8  黙示録2:14

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然れども汝の神ヱホバ、バラムに聴ことを為し給はずして 汝の神ヱホバその呪詛(のろひ)を變て汝のために祝福(めぐみ)となしたまへり 是汝の神ヱホバ汝を愛したまふが故なり 申命記23:5

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終りに言ふ、汝らみな心を同じうし互に思ひ遣り、兄弟を愛し、憐み、謙遜(へりくだ)り、悪をもて悪に、謗(そしり)をもて謗に報ゆることなく、反って之を祝福せよ。汝らの召されたるは祝福を嗣がん為なり  
ペテロ前3:9

             

                2017-10-21 モーセ 


神は我らを新約の役者(えきしゃ)となるに足らしめ給へり、儀文の役者にあらず、霊の役者なり。そは儀文は殺し、霊は活せばなり。 コリント後3:6

儀文とは何か? 律法である。神が石の板二枚に書かれモーセに与えた十誡を始めとする戒律である。これに仕えた者が、儀文の役者であった。

では、霊の役者とは何か? 主イエス・キリストを信じて水と霊を受け、御霊に由って用いられる所の、新約の役者である。

出エジプト記35:29~35 およびコリント後書3:7~13には、モーセが二度目に十誡を頂いた後に顔覆いを付けていたことが記されている。

シナイ山で神から十誡を頂いたモーセが山を下り、民の前に立った時、彼自身は気付かなかったのだが、彼の顔は神と語っていたために光を放っていたのである。アロンと民の長たちはその光栄を見て懼れ、近寄ることができなかった。そこでモーセは彼らを呼び寄せ、神の言葉を語り諭した。そして語り終えると顔覆いを付けた、次に神に会う時には、顔覆いを外したのである。

モーセの顔にある光栄は何時までも続くものではなかった。その光栄はやがて主イエス・キリストに執って代わられるものであった。パウロの言うごとく、モーセは消ゆべき者の消えゆくをイスラエルの子らに見せぬために面帕(かほおほひ)を付けて顔を覆ったのである。

主イエス・キリストは言われた。「律法と預言者とは、はヨハネまでなり.その時より神の國は宣伝へられ、人みな烈しくせめて之に入る」と。 ルカ16:16

今は、恵みの時代、救いの時代、聖霊時代、教会時代である。神の御顔を拝し、御声を聞くことができる幸いな時代である。

主は即ち御霊なり、御霊のある所には自由あり。我等はみな面帕なくして鏡に映るごとく、主の榮光を見、榮光より榮光にすすみ、主たる御霊によりて主と同じ像(かたち)に化するなり。 
コリント後3:17,18

 

我等この寳(たから)を土の器に有てり、これ優れて大なる能力(ちから)の我等より出でずして神より出づることの顕れんためなり    コリント後4:7

私たちは地の塵をもって造られた者にすぎないが、この器の中に素晴らしいものを持っている。それは主イエス様の御霊である。

聖霊なんぢらの上に臨むとき、汝ら能力をうけん、とある如く、聖霊を受けた者は、ひとたび神の御用のために立ち上がる時に、圧倒的な力をもって主の御霊が私たちを捉え、用いてくださるのである。

私たちが虚しくなり、主に全てを委ねて行く時に、力の根源は私たちの側に有るのではなく、神に在ることを知るのである。

ぺリシテ人1000人を驢馬(ろば)の顎骨(あぎとぼね)をもって倒したサムソンの力は誰が授けたのか、神の使いによって神のナザレ人と定められたからにほかならず、またぺリシテ人の巨人ゴリアテを神の名と投石索(いしなげ)と石とをもって倒したダビデの信仰と勇気は誰が授けたのか、サムエルによって膏を注がれたからに外ならない。

ペンテコステの日にペテロは十一使徒と共に立ち上がって主イエス・キリストを証すれば3000人がバプテスマを受け、弟子に加わった。これぞ聖霊の働きである。

神の御霊に満たされて、喜び、感謝して進んで行こうではないか!




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エルサレムのために平安(やすき)をいのれ エルサレムを愛するものは榮ゆべし
                                                詩篇122:6

ダビデがよめる京(みやこ)まうでの歌である。

人われにむかひて率(いざ)ヱホバのいへにゆかんといへるとき我よろこべり  1節

家族か友人の何方かが安息日の朝、「さあ、教会に行きましょう!」と声をかけてくれた時、二つ返事で「はい、行きます」と答えた。なぜなら、教会は神様の家、そこで神様にお会いすることができるから、神様に祈ることができるから、そして神様が祝福をこの身と心と一杯に満たすほどに与えてくださるから。

エルサレムよわれらの足はなんぢの門のうちにたてり  2節

エルサレムとは、( エル=神 サレム=平安 ) のこと。その門を通り、中に立った。そこは、神の臨在が輝いているところ。「今日も祈ろう! 讃美をしよう!」 と心を天に向ける。

エルサレムよ なんぢは稠(しげ)くつらなりたる邑(まち)のごとく固くたてり。 3節 

イスラエルの都として建てられたエルサレム。城壁が街の周囲に築かれ、仇人の侵入を許さず、平安に満ちている。教会も主の御手によって固く守られている。

もろもろのやから即ちヤハの支派(やから)かしこに上りきたり イスラエルにむかひて證詞(あかし)をなしまたヱホバの名にかんしゃをなす。 4節

イスラエルの12支族にとってエルサレムに上って感謝することは、定めであった。

彼処にさばきの寳座(みくら)まうけらる これダビデの家のみくらなり 5節

ヘブロンの王であったダビデは、イスラエルの長老に膏を注がれてイスラエルの王となった。王は従者とともにエルサレムに行き、エブス人の手よりシオンの要害を取った、即ちダビデの城邑(まち)である。 サムエル後5:6~10

   エルサレムのために平安(やすき)をいのれ 
       エルサレムを愛するものは榮ゆべし  
6節

嘗て、初代監督村井じゅん先生が教えて下さったことがある。聖書の御言葉は、祝福としてとらえることが大切であると。

聖書には13,000もの約束がある。それをそのまま信じていただくなら、その約束は全て私たちのものになるのだ。教会のために祈ることは、教会を愛することであり、その人は必ず祝福されるのだ。

論より証拠、まず実行することが幸いである。





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