道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2018年03月

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ヱホバ言ひ給ひけるは爾(なんぢ)の子爾の愛する獨子(ひとりご)即ちイサクを携てモリアの地に到りわが爾に示さんとする彼所(かしこ)の山に於て彼を燔祭として献ぐべし  
創世記22:2

「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き從ったからである。」  
新改訳聖書 22:16~18

アブラハムは、神の御声に忠実に従い、イサクを献げたのである。そうすることによって彼は大いなる祝福を得た。

パウロは、アブラハムは信仰によってイサクを献げたと言った。それは「イサクより出づる者なんじの裔と称えらるべし」との御言葉を信じ、たとえイサクを屠ったにしても、主は甦えらせて下さると信じたからであると。 
へブル書11:17~19


初代監督村井じゅん師は「私は従うことにかけては天下一品」と称しておられた。
上から光が来て、示された真理は断行すべし。そこに祝福が伴い、証しが与えられる。
「主の祝福だに有らば足れり」である。 

  
写真  群馬イエス之御霊教会・献堂式の引出物   昭和60年12月

         
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陰府(よみ)はなんぢに感謝せず 死はなんぢを讃美せず 墓にくだる者はなんぢの誠実(まこと)をのぞまず 唯いけるもののみ 活るものこそ汝にかんしゃするなれ わが今日かんしゃするがごとし  イザヤ38:18,19  

ユダの王ヒゼキヤが病に罹って、その癒えたのちに記した書の言葉である。

預言者イザヤによって 「遺言を書け、死んで活きることはできない」と 言われた重病であったが、イザヤが去ったあと、ヒゼキヤ王は顔を壁に向けて、主に祈って言った「あゝ、主よ。どうか思いだしてください。私が、まことを尽し、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることをおこなってきたことを。」 こうしてヒゼキヤは大声で泣いた。

主は、その涙を見、また泣声と祈りとを聴かれて、イザヤを再びヒゼキヤの許に遣わして預言して言われた。「王の齢(よわい)を15年増し加えて、アッシリア王の手から守る」と。その徴としてアハズの日時計を10度退かせてくださったのである。

そしてイザヤは 「ひとかたまりの干しいちじくを持って、来させ、腫物の上に塗りつけよ、王必ず癒えん」 と言った。こうしてヒゼキヤは癒され、王事に復すことができるようになった。

その癒やされたときに記したのが冒頭の聖句。

主によって活かされる者のみが味わえる喜びを歌い上げ、大感謝・大讃美を主に捧げている。

私たちも水と霊をもって救われ、主の福音のために用いられる証人となったことを感謝して、日々御名を誉め称えつゝ崇めつゝ進んで行きたいと思うのである。ハレルヤ!

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    写真 加藤宏子 <improvisatoin~うけとめるかたち>  紙
    買い物の途中、札幌駅前通地下歩行空間(チ・カ・ホ)で出会った作品
    作家のことば<私は作品によって生命力を表現しようとしています・・・>  
    2018年本郷新札幌彫刻賞受賞作品


 イエス言ひ給ふ 『起きよ、床を取りあげて歩め』   ヨハネ5:8

その後、ユダヤ人の祭があって、イエスは、エルサレムに上られた、
さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダ(恵みの家の意)と呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
(彼らは水の動くのを待っていた。主の使いが時々この池に降りて来て、水が動かされたあとで最初にはいった者はどのような病気にかかっている者でもいやされたからである。)
そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
病人は答えた。「主よ。私には水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。 
 
                                 新改訳聖書 2版より  ヨハネ5:1~9

若き日の私のことを思い返せば、この人と同じようだった。
小学生の時は急性肺炎で高熱を出し、母の看病で窮地を脱したのを覚えている。
中学生の頃「生と死」をテーマに作文を書き、教師に心配をかけたことがある。
その後、肺結核と持病の心臓病のため、青春期を棒に振った。
そういう色々なことが走馬灯のように頭に思い浮かんでくる。

何もかも行き詰まっていた時に、天から救いの手が差伸べられた。家の近くにキリスト教会ができ、伝道が始まった。
正に、そこへ行けば救われる。「起きて、床を取りあげて歩きなさい」と、主が呼びかけてくださったのだった。。

1952年9月10日から14日まで、東京イエス之御霊教会牧師村井じゅん先生が来られて開かれた「真のキリスト教特別伝道集会」に導かれて、村井先生の口から水と霊の福音を聞き、それに從って聖霊を受け、水のバプテスマを受け、救われたのである。私にとって劇的な出来事であった。

その後、献身へと導かれ、牧師となり、はや幾星霜を経たことか。
主より委ねられた羊の群れを養い、今日に至っているが、言葉では言い表せられない主の恩寵を全身に感じつつ日々歩んでいる。 ハレルヤ!!


さらば何を食ひ、何を飲み、何を著んとて思ひ煩ふな。是みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父は凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。
まづ神の國と神の義とを求めよ、然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦労は一日にて足れり。 マタイ6:31~34

私の母は、救われる以前は心配性だった。よく言っていた言葉に「今年の餅をついたら、来年のもち米の心配をする」がある。だから積り積もって「母さんみたいに苦労する者はいない」といつも言っていた。

私がイエス様によって救われた後、家族が次々救われたのだが、母を教会に導いていく前の日に、私は妹に「母さんが聖霊を受けたら、あの口癖は言わなくなるよ」と言ったのだが、本当に聖霊を受けた日から母は喜びに満たされて、口癖を言わなくなったのである。そして直に洗礼を受けて救われたのだった。それからは見違えるほどに人柄が変わって、教会に熱心に通い、家ではいつも祈り、近所の人たちや親戚の人たちなどを廻って、会う人毎にイエス様を証し、伝道を続けたのである。

主イエス様は言われた。
凡て労する者・重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません。我は柔和にして心卑(ひく)ければ、わが軛(くびき)を負ひて我に学べ、さらば霊魂(たましひ)に休息(やすみ)を得ん。わが軛は易く、わが荷は軽ければなり。 
マタイ11:28



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