道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2018年04月

         
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汝らの召されたるは祝福を嗣がん爲なればなり  ペテロ前3:9下

信仰の父アブラハムは、天地の主なる神に從うことによって祝福を得た。

アブラムはカルデアのウルでテラの子として生まれた。父テラは、カナンの地へ往こうとして、長子アブラムと孫ロト、及びアブラムの妻サライを連れてウルを発ったが、ハランに至って、そこに住んだ。

ここにヱホバは、アブラムに言われた。
「汝の國を出で 汝の親族に別れ 汝の父の家を離れて 我が汝に示さん其地に至れ   我汝を大なる國民と成し 汝を祝み 汝の名を大ならしめん 汝は祉福(さいはひ)の基となるべし   我は汝を祝する者を祝し 汝を詛(のろ)ふ者を詛はん 天下の諸(もろもろ)の宗族(やから)汝によりて福禔(さいはひ)を獲(えん)と」
  創世記12:1~3

私たちもアブラハムに倣って、主に従い、水と霊とをもって新たに生まれ、罪の世から離れて神の国に移り住むならば、大いなる幸いを得て、幸福の基となることができる。主が共にいてくださるからである。

アブラハムとロトは祝福を得て、互いに羊や牛、天幕などの所有物が多くなり、牧者の間で争いが起きたので共に住むことができず、別れることになった。アブラハムは、ロトに右か左かを選ばせた。ロトは肥沃な低地を選び、ソドムの町へと移って行った。一方アブラハムはカナンの地に住み、神の祝福を得てヘブロンに天幕を移したのである。
 13章

その時、低地で戦争が起きた。エラムの王ら4人とソドムの王ら5人が戦い、ソドムの王らは敗北して山に逃げ、町は略奪され、そこに住むロトと持ち物も連れ去られた。

この知らせがアブラハムの耳に入るや、家の子318人を率いて戦いに出かけ、大勝利をして凡ての物を取返し、ロトと家族と民と持ち物凡てを取返した。

「時にサレムの王メルキゼデク、パンと酒を携出(もちいだ)せり 彼は至高(いとたか)き神の祭司なりき 彼アブラムを祝して言けるは 願くは天地の至高神アブラムを祝福みたまへ 願わくは汝の敵を汝の手に付したまひし至高神に称譽(ほまれ)あれと アブラム乃ち彼に其諸(すべて)の物の什分の一を饋(おく)れり」
 14:18~20

メルキゼデクについては、へブル書第7章に記されている。

此のメルキゼデクはサレムの王にて至高き神の祭司たりしが、王たちを破りて還るアブラハムを迎へて祝福せり。アブラハムは彼に凡ての物の十分の一を分與へたり。その名を釋(と)けば第一に義の王、次にサレムの王、すなはち平和の王なり。父なく、母なく、系圖なく、齢の始なく、生命の終なく、神の子の如くにして限りなく祭司たり。
 へブル7:1~3

何と素晴らしい大祭司によってアブラハムは祝福を受けたことか。

目を新約の時代に移して見ると、私たちの主イエス・キリストは、アロンの祭司の及ばぬ至高者であり、「なんぢは永遠にメルキゼデクの位に等しき祭司たり」である。
 へブル7:17

このお方によって救われた私たちは既に約束の御霊を戴き、身は清き水にて洗われ、御血の注ぎを受けた者である。これこそ祝福であり、更に恵みを増し加えられていくのである。ハレルヤ!  


茲にダニエルはその詔書を認めたることを知りて家にかへりけるが その二階の窓のエルサレムにむかひて開ける處にて 一日に三度づつ膝をかゞめて禱りその神に向て感謝せり 是その時の前よりして斯なし居たればなり 
ダニエル6:10  

ダニエルは少き日にバビロンの王ネブカデネザルによってエルサレムからバビロンに捕囚された者たちの一人であった。だが彼の内には、神の御霊が宿っていて、聡明了知および非凡の智慧があり、夢を解き隠語を解き難問を解いたので、歴代の諸王は彼を重用した。

メデアのダリヨス王の時の事、王は広大な領土を治めるために百二十人の牧伯を立て、その上に三人の監督を立てたのだが、ダニエルは凡ての人に勝っていたので、王は彼をより高く立てて全国を治めようとした。
 
ダニエル書6章

他の監督や牧伯は彼の立身出世を妬み、その地位から引きずり下ろそうと企て、国事について訴える隙を狙ったが彼には何一つ欠点が無かったので、神の例典(のり)について隙を狙う外はないと定めたのである。即ち、彼が信じている信仰を奪い、神への祈りをできなくすれば失政をするだろうと思い、王の許に集i来て、王に進言した。「今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げこまれると。王よ。今、その禁令を制定し、変更されることのないようにその文書に署名し、取り消しのできないメデヤとペルシャの法律のようにしてください。」と。

ダニエルは、このことを知っていたが、家に帰るといつものように二階の窓からエルサレムに向って開いた窓から神に祈ったのである。

彼を陥れようとする者たちはその姿を見て現行犯だと、勝ち誇ったかのように王に告げ、禁令の違反者としてダニエルへの断罪を迫ったのである。

悪計の罠に嵌った王であるが、法律を変えることはできず、断腸の思いでダニエルを獅子の穴に投げ入れた。

一睡もできず夜を明かした王は、朝まだきに起きいでて獅子の穴に急ぎ行き、ダニエルやいかにと声をかけると答えがあった。「わが神その使をおくりて獅子の口を閉させたまひたれば 獅子は我を害せざりき 其は我の辜(つみ)なき事かれの前に明かなればなり 王よ我は汝にも悪しき事をなさざりしなり」と。

王は喜び、その命令によってダニエルは獅子の穴から出されたが、その身に何の害も受けてはいなかった。彼がおのれの神に頼んだ故である。

即刻、王は彼を讒奏した者たちを曳ききたらせて妻子と共に獅子の穴に投入れると、穴の底につかぬ内に獅子は彼等を攫んで、骨までも噛み砕いた。

ダリヨス王は全世界に住める人々に詔書を送った。
「今我詔命(みことなり)を出す 我國の各州の人みなダニエルの神を畏れ敬ふべし 是は活神(いけるかみ)にして 永遠に立つ者 またその國は亡びず その権は終極(をわり)まで続くなり 是は救を施し拯(たすけ)をなし 天においても地においても休徴(しるし)をほどこし 奇蹟をおこなふ者にて ダニエルを救ひて獅子の力を免れしめたり」と

使徒パウロは凡そキリスト・イエスに在りて敬虔をもて一生を過ごさんと欲する者は迫害を愛くべしと言い、テモテ後3:12 而して我は獅子の口より救い出されたり。と言った。 同4:17 迫害する者に勝利したのである。

ダニエルの何者にも屈しない強固な信仰は素晴らしい。主は信ずる者に偕にいて勝利者たらしめてくださる。その原動力は祈りである。

ダビデはわれ汝のただしき審判(さばき)のゆゑをもて一日(ひとひ)に七次(ななたび)なんぢを讃称ふ」と言う。 詩篇119:164

常に喜べ、絶えず祈れ、凡てのこと感謝せよ、これキリスト・イエスに由りて神の汝らに求め給ふ所なり。 テサロニケ前5:16~18





もし安息日になんぢの歩行(あゆみ)をとゞめ 我聖日になんぢの好むわざをおこなはず 安息日をとなへて樂日(たのしみのひ)となし ヱホバの聖日をとなへて尊むべき日となし 之をたふとみて己が道をおこなはず おのが好むわざをなさず おのが言(ことば)をかたらずば その時なんぢヱホバを楽しむべし ヱホバなんじを地のたかき處にのらしめ なんぢが先祖ヤコブの産業をもて汝をやしなひ給はん こはヱホバ口(みくち)より語りたまへるなり  イザヤ58:13.14  

安息日は、何時か?
第七日に神其造りたる工を竣(おへ)たまへり 即ち其造りたる工(わざ)を竣て七日に安息(やすみ)たまへり 神七日を祝して之を神聖(きよめ)たまへり 其は神其創造(つくり)為たまへる工を尽く竣て 是日に安息みたまひたればなり  創世記2:1,2
即ち、第七日は今日の土曜日に当たる。

神が創造の工を竣えて安息された此の日は、祝福され神聖られた日である。この日を神を楽しむ日とし、尊ぶ日としなさいと神が言われているのである。

安息日は、神の手によって記されたモーセの十誡の第四条に記されている。
安息日を記憶えてこれを聖潔(きよく)すべし 六日の間勞(はたら)きて汝の一切の業を爲べし 七日は汝の神ヱホバの安息なれば何の業務(わざ)をも爲べからず・・・・・ 其れはヱホバ六日の中に天と地と海と其等の中の一切の物を作りて 第七日に息(やす)みたればなり 是(こゝ)をもてヱホバ安息日を祝ひて聖日としたまふ  出エジプト20:8~11 同31:13~17参照

私たちは安息日を旧約の律法として守るのではない。主を尊び、楽しみ、地の高き處にのらしめ、ヤコブの産業をもてやしなうとの約束に与るためである。主は安息日礼拝を守る私たちに恵みと祝福を与えて御言葉を立証してくださるのである。

世の教会は、日曜日が聖日であり安息日だとというが、日曜日は週の首(はじめ)の日であり、主の復活の日であるが、安息日ではない。
ローマ帝国のコンスタンチヌス王が即位するや、キリスト教徒への迫害を止めて国教とし、日曜休業令を出して礼拝日とした。「彼また時と法(おきて)とを変えんことを望まん」との預言は成就した。 ダニエル7:25

しかし、安息日が第七日であることは不変であり、主イエス・キリストがパリサイ人と安息日問題について論じた時に、「人の子は安息日の主たるなり」 と言い給いし聖言を銘記すべきである。 マタイ12:8

安息日礼拝を律法によらず、恵みによって守ることは、主なる神が私たちをして地の高き処に載らしめ、ヤコブの産業をもて養いくださるのである。即ちヤコブが主なる神より大いなる祝福を受け、無一物から始まったが、母リベカの郷であるハランに住む伯父ラバンの許に行き、その娘レアとラケル、及び女奴隷ジルパとビルハの4人を得て、12人の息子、娘一人をもうけ、更にラバンの許で家畜を飼い、報酬として多くの羊と山羊とを得、また男女の奴隷、及びらくだと、ろばとを得て二十年後に国へ帰ったことは、聖書に記されたる如くである。 創世記28~31章参照



                            レタックス daishi 
                                     
過日、島根教会の牧師H先生が召されたとの報をいただいた。暫し厳粛な気持ちになって瞑目した後、異言をもって主に祈った。
告別式に出席はできなかったが、弔電を認めてお送りし、哀悼の意を表した。

嘗て、2001年3月に道央教会の二度目の献堂式が挙行された時、参列された多くの牧師先生方聖徒方の中にH先生がおられた。それに気付いたのは、お祈りの時であった・・・。

250人程の出席者御一同で教会の祝福を異言でお祈りし、その祈りが鎮まった時、お一人の牧師先生の上に御霊が臨み、一きわ声高く霊歌を歌い、預言をされた。目を留めるとH先生であった。
神からのメッセージであると察知したので、即座に私は紙とペンをとって、その言葉を書き記した。

 『教会は祈りの家なり、とこしえに我は守らん』 と。

    「わが家は祈りの家と称へらるべし」 
マタイ21:13

そのこともあって、何が起ろうとも教会は主によって固く守られていると私は信じている。
あの日、主は教会の未来に希望の光を与えるべく御霊の器を送り、預言者として用いてくださったことを感謝している。正に、「預言する者は人に語りて其の得を建て」また「預言する者は教会の徳を建つ」と記されている如くである。 コリント前14:3,4

イエス之御霊教会教団は、キリストの体なる教会である。教会の首はキリストであり、私たちは肢である。皆一体となる為に一つ御霊をにてバプテスマを受けたのである。故に一つの肢が苦しむならば、諸々の肢が共に苦しみ、一つの肢が尊ばれなば、諸々の肢が共に喜ぶのである。
 コリント前12~27参照 
大聖会や献堂式など、教団の行事に集う時、主の御霊によって一体とされていることを強く感じるのである。

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汝はその贖ひし民を恩恵をもて導き 汝の力をもて彼等を汝の聖き居所(すまひ)に引きたまふ
出エジプト記15:13

汝民を導きてこれを汝の産業の山に植えたまはん ヱホバよ是すなはち汝の居所(すみか)とせんとて汝の設けたまひし者なり 主よ是汝の手の建たる聖所なり ヱホバは世々限りなく王たるべし
同15:17,18

モーセを立ててイスラエル人をエジプトにおける430年の苦役より救い出された神は、荒野の旅を経た後、カナンの地を譲りとして与えると約束された。その地は乳と蜜の流れる肥沃な土地である。またその後、エルサレムを選び神殿が建てられ、信仰の中心地となった。これは、神が選民イスラエルと偕に住み、彼等の王となる為であった。

今は教会時代である。、私たちは主イエス様によって罪の世から救い出された。キリストの御血によって清められ、神の御霊が私たちの中に内住し、この身を御霊の住み給う神の宮として下さった。

日々、主と偕に歩み、讃美と感謝と、祈りとの生活を続けている。いつも敬虔な心で主を仰ぎ、従がう道を歩ませて下さっている。実に幸いではないか。ハレルヤ!

汝らの身はその内にある、神より受けたる聖霊の宮にして汝らは己の者にあらざるを知らぬか。汝らは價をもて買われたる者なり、さらばその身をもて神の榮光を顕せ。 コリント前6:19,20


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