道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2018年09月

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                        世界ふれあいひろば2018  JICA北海道


「道央イエス之御霊教会~教会だより」を OCNブログ人で始めたのは、2008年のことでした。

OCNのサービス終了に伴い、2014年9月に Livedoor に移転して、
「道央イエス之御霊教会ブログ」 と改題して今日に至りました。 合わせて10年経ちました。

時間と言うものは、「主の御前には1日は千年の如く、千年は一日のごとし」とペテロ後3:9とあるように、神様が私たちに与えてくださった大切な物だと思います。

この間、ほぼ毎週、記事を更新してまいりました。公開した記事数は如何ほどになりましょうか。

ブログは、自分自身の分身のようなもので、「投稿」のボタンを押す度ごとに子どもを世に送り出すような気持ちが致します。

多くの皆様方が訪問してくださいましたことを感謝しております。

10年間という足跡を刻んできたところで、一区切りが付いたと思いますが、反面、主が導かれるならば、もう少し進んでみようかなという気持もあります・・・。

アクセルを踏んだり、ブレーキをかけだりと、悲喜こもごものブログですが、お付き合いいただければ幸いです。

ここまで歩んで来れたことを主イエス様に感謝致します。

 ハレルヤ!                      管理人 
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われら強き者はおのれを喜ばせずして、力なき者の弱きを負ふべし。おのが隣の徳を建てん為に、その益を図りて、之を喜ばすべし。キリストだに己を喜ばせ給はざりき。録して 『なんぢを謗る者の謗は我に及べり』 とあるが如し    
ロマ15:1~3

もし自分に余力があったら、自分の為にではなく、人様の為に役立つことをしよう。それによって相手の方が喜んで下さるなら、自分にとってどんなに嬉しいことか。そのために自分が非難されることがあっても、その非難はイエス様が受けてくださる。

「イエス様の生き方なんだな」 とそう思った時、戸外でヒューッと突風が吹いた。

今夜は、雨になるのかも・・・。

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大聖会の余韻を残すごとく聖言が講壇に掛かっている。
ゼカリヤ8:23の下半句。
皆さん、喜びに満たされて帰って行かれた。ハレルヤである。

そのすぐ後に、このたびは米寿を迎えた。
地震の後であるし、何も言わなかったのだが、皆さん分かっておられ、
子どもたちや、弟夫婦、信者さん方からお祝いの言葉や品物、花束を頂いて大変に嬉しい。
ここまで来れたのは、正しく主の恵み以外の何物でもない。

米寿と言えば、思い出すのは
1988年3月8日、ハワイの太平洋大聖会とマウイ教会の感謝祭祝福祭に行ったあと、
ホノルルに戻り、ホテルのホールで、1900年生まれの
2代監督、村井スワ先生の 「米寿のお祝いの会」 を皆で開いた事である。

勿論、東京でお誕生日の3月18日にお祝いをなさることだと思ってはいたが、
ハワイに来た者一同で、早めのお祝いをするのも良いのではないかと、
発起人の案で、スワ先生にお話をし、皆が賛同して開かれた宴であった。

司会者は話上手なY先生と決まり、宴席が開かれた。スワ先生には、ハワイならではのレイ(花輪)を沢山贈って洋服の上から次々首に懸けさせていただき、長寿をお祝いしたのである。

私は、時間があったので、思いつくままアラモアナセンターで模造紙とクレヨンを買い、
公園の一角に陣取り、アメリカ人の観光客が立ち止まって見つめる中で 「米寿」 と大きく書き、
星のシールを沢山貼り付けてホテルへ持って行き、宴席に祝意をもって飾らせていただいた。
あれから30年経った。今は懐かしい思い出である。

            
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村井スワ先生は98歳の誕生日に召されるまで、教団監督として職責を果たされ、水と霊の全き福音を宣伝えるために先頭を切って進まれた。 ハレルヤ!



9月6日、午前3時8分に、

M6.7、震度7の地震が厚真町で発生して4日目、

まだ時々揺れています・・・。

停電は、こちらは2日間で済みましたが、

節電をしなければなりません。

もっと凄く大変な被災地があります。

皆様のお祈りに感謝!

「ありがとう」を申し上げます。







「福音」とは、「良き音信」という意味だが、新約聖書に数多く出てくる。そもそもマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四書はタイトルからして「福音書」になっている訳であるし、新約聖書全体では多数を数えられる。ところが旧約聖書ではイザヤ書61章1節ただ1ヵ所である。これは少なからず驚きである。

イザヤ書の聖言は、こう記されている。
「主ヱホバの御霊われに臨めり こはヱホバわれに膏をそそぎて貧きものに福音をのべ傳へることをゆだね 我をつかはして心の傷める者をいやし俘囚(とらはれびと)にゆるしをつげ 縛(いまし)められたるものに解放をつげ・・・」


主イエス様が伝道の途次、ナザレで安息日に会堂に入り聖書を読もうとして立たれた時に、預言者イザヤの書を与えられたので、其の書を繙き、上記の聖言を見出して読まれた。読み終えて書を巻き、係りの者に返して坐し、こういわれた。「この聖書は今日なんぢらの耳に成就したり」と。 ルカ4:17~21

福音は、正しくイエス・キリストによって成就されたのである。主は言い給うた。「聖書は我につきて証するものなり」 ヨハネ5:39

旧約時代は、福音の準備が為され、イエス・キリストの出現によって、一気に花が咲いたのである。  コロサイ2:17参照

パウロは福音とは何ぞやを教えている。

「わが第一に汝らに傳へしは、我が受けし所にして、キリスト聖書に応じて我らの罪のために死に、また葬られ、聖書に応じて三日めに甦へり、ケパに現れ、十二弟子に現れ給ひしことなり」
 コリント前15:4

而して救いは如何にせば良いか。

福音を「信じてバプテスマを受くる者は救わるべし」 即ち、水と霊とのバプテスマを受ける事である。

是なんぢら初の日より今日に至るまで福音を弘むることに与るが故なり。我は汝らの衷に善き業を始め給ひし者の、キリスト・イエスの日まで之を全うし給ふべきことを確信す。
 ピリピ1:5,6


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