道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2018年10月



バプテスマのヨハネは語った。

『我は汝らの悔改のために水にてバプテスマを施す。されど我より後にきたる者は、我よりも能力あり、我はその鞋をとるにも足らず、彼は聖靈と火とにてバプテスマを施さん」
 マタイ3:11

この預言が成就するのは、主イエスが我らの罪のために十字架に磔り、死にてのち甦り、天に挙げられて後の五旬節の日であった。

五旬節の日となり、彼らみな一處に集ひ居りしに、烈しき風の吹ききたるごとき響、にはかに天より起りて、その坐する所の家に満ち、また火の如きもの舌のやうに現れ、分れて各人のうへに止まる。彼らみな聖靈にて満され、御靈の宣べしむるままに異邦の言にて語りはじむ。
 使徒2:1~4

時に敬虔なユダヤ人が天下の国々から来てエルサレムに住んでいたが、この音を聞いて来てみると、群衆はおのおの己が國語で使徒たちが神の大なる御業を語るのを聞いたのである。

驚き、惑う彼らにペテロは、ヨエルの預言を引いて「末の世に至りて、我が靈を凡ての人に注がん…」と語り、主イエス・キリストの福音を告げ、更に「イエスは神の右に挙げられ、約束の聖靈を父より受けて汝らの見聞する此のものを注ぎ給ひしなり」と語ったのである。 

「見聞する此のもの」とは何か、聖霊を受けた時に徴として語らされる「異言」の事である。

聖書を読むと、受霊の唯一の徴は「異言」であると明記している。下記の2聖句を見よ。 


ペテロ尚これらの言を語りをる間に、聖霊、御言をきく凡ての者に降りたまふ。ペテロと共に來りし
割礼ある信者は、異邦人にも聖霊の賜物のそそがれしに驚けり。そは彼らが異言をかたり、神を崇むるを聞きたるに因る。 
使徒10:44~46 

パウロ手を彼らの上に按きしとき、聖霊その上に臨みたれば、彼ら異言を語り、かつ預言せり。 
同19:6

聖霊のバプテスマを受ける事はキリストを信ずる者にとって必須条件である。何とならば、「キリストの御霊なき者はキリストに属する者にあらず」 ロマ8:9 である。

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今日の安息日礼拝をもって一人の兄弟を送り出した。

細かな話はさて置き、高齢になり、他県に住む御子息の許へ行くことになったのである。

人は心に己の途を考へはかる されどその歩履(あゆみ)を導くものはヱホバなり 
箴言16:9

神様が定めた時が来たと思い、御旨に從い、移転することになったのである。

幸いに移転先にはイエス之御霊教会があり、委ねることができるのは感謝なことである。

以前にも同様に長い信仰歴の姉妹を送り出したことがあるが、高齢化時代を迎えた今日身の振り方を考えねばならぬことは誰しもあることと思う。

高齢になってからの転地は、習慣の違いなどあって難しからうが、「郷に入れば郷に從え」の諺の如くであり、何よりも新しい地でご子息も誘って教会に通い、牧師先生のご指導に從い、信仰生活に励んでいただきたいと切に願い祈るのである。

長い間教会に通ってくださり、共に祈り、讃美をリクエストすると一番先に「何番」と答え、御言葉に從って歩んでくださった兄弟である。主が新たなる祝福を以て導いてくださるように願う。 

汝は年邁みて老たるが尚取るべき地の残れる者甚だおほし 
ヨシュア記13:1


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共に食事の席に著きたまふ時、パンを取りて祝し、擘(さ)きて與へ給へば、彼らの目開けてイエスなるを認む、而してイエス見えずなり給ふ。かれら互に言ふ『途にて我らと語り我らに聖書を説明し給へるとき、我らの心、内に燃えしならずや』  ルカ24:30~34

主イエス・キリストが復活された一週の初の日に、主の御使いが先ずマグダラのマリヤに現れ、次いで他の女たちに現れて主の甦り給いしことを告げ、その後主御自身がマグダラのマリヤに現れ給うた。

その日の午後、主はエマオ途上で、主の甦りのことを訝しげに語り合いつつ歩む二人の弟子に近づき現れ給うた。然し彼らの目は遮られてイエスたるを認めることができなかった。

主が彼らに「歩みつつ互に何を語りあっているのか」と尋ねられた時、返答は「主が復活されたと聞いたが信じられない」という言葉であった。この二人に対して主は歩きつつ聖書の預言を挙げて懇懇と説き示し給うたのである。

遂にエマオに着き、留らんとして、食事の席についた時、主がパンを取って祝し、擘きて与え給うと、瞬時に彼らの目が開かれ、単に旅の道連れと思っていた人が、さにはあらず主イエス・キリストであった事実を見せられたのである。

私たちも主の聖餐に与ることによって主イエス・キリストに触れ、より深く主を知り、福音の奥義を悟らされるのである。

そこで二人はエルサレムへ急遽帰りみれば、十一弟子や共なる人々が「主は実に甦り、シモンに現れられた」と喜びの真っ最中。二人も証して今道にてありし事柄と、パンを擘き給うによりてイエスを認めし事とを述べた。

そこに主イエスが忽然として現れ、すっくと中に立ち「平安なんぢらにあれ」と言い給うた。

霊をみているのではないかと恐れる弟子たちに、主は「我が手わが足を見よ、これ我なり。我を撫でて見よ、靈には肉と骨となし、我にはあり、汝らの見るごとし」と言われたのである。

歓喜と驚愕と不信に包まれた弟子たちを前にして、主は炙りたる魚一切れを食し給うたのである。

何と不思議な主のお体であろうか。これこそ、永遠に活きる「榮光體」である。

パウロは、コリント前書15章35節以下に記して斯く述べた。即ち「死人いかにして甦るべきか、如何なる體をもて來るべきか」と問い、「死人の甦りもまた斯くのごとし。朽つる物にて播かれ、朽ちぬものに甦へらせられ、卑しき物にて播かれ、光榮あるものに甦へらせられ、弱きものにて播かれ、強きものに甦えらせられ、血気の體にて播かれ、靈の體に甦へらせられん。血気の體ある如く、また靈の體あり」と。

我ら水と霊のバプテスマをうけた者は、主と同じく、甦りの日には、血気の體ではなく、靈の體に甦えらせられるのである。 感謝すべきかな、ハレルヤ

されど我らの国籍は天に在り、我らは主イエス・キリストの救主として其の處より來りたまふを待つ。彼は萬物を己に服はせ得る能力によりて、我らの卑しき状の體を化へて己が榮光の體に象らせ給はん 
ピリピ3:20,21


また處々に飢饉と地震とあらん、
    これ等はみな産婦の苦難の始めなり。

                                         マタイ24:8

グラグラグラと大きな揺れを感じて目が覚めた。
アー、地震だ!!
どうなることか・・・・・、
寝たまま身を任せる。

ようやく鎮まったのを見計らったのち、起き上がる。
気付くと停電用のオレンジ色の電球が点灯している。
時計を見る。9月6日 午前3時10分頃(正確には午前3時8分)。
家族みんな廊下(広いのでホール)に出て、無事を確かめ合う。

ザーッと見渡して被害がないかどうかを見る。
ある、ある、有った。
リビングには、食器棚からグラスや湯呑み茶碗が落ちて割れ、
私の部屋では、箪笥の飾り棚や本棚の中で写真やCDなどが倒れている。

片付けは、翌朝明るくなってから始めた。大層なことは無かったが、
被害は鐘突堂のタイルが一部剥がれているのが判明したので、
業者に修理を依頼した。(後日フォークリフトを持ってきて修理作業を終えた。)

副牧師たちがメールで信者さん方に連絡を取り、全員の無事を確認した。

この停電の為、テレビは付かず、ネットは繋がらず、
情報らしきものは入らずにいた。
有りがたかったのは水道から水が出、ガスが使えたこと。
それで、食事も温かな物をおいしく頂いた。
地震発生から40時間経った7日の夕刻、漸く電気が復旧され、
明るさが甦り、電灯が灯いた。
 
溜まっていた情報が一気に入ってきた。
北電最大の出力165万Kwを持つ厚真火力発電所が被害に遭い、
連鎖的に他の発電所の機能が阻害され、
北海道全域に亘って298万戸もの大規模停電に至ったという。
一つの島である北海道!出来得る限り自給自足をせねばならない環境に在る。

この地震の為に被害に遭われた方が多くおられる。
震源地の厚真町では、直下型地震のため、山が崩れ、地滑りが起きて、
家ごと押し流されて、多くの方々が亡くなられた。
田畑を失った方も多くおられる。復旧には時間がかかりそうだ。

札幌でも液状化現象が起きて住めなくなった家がある。

厳しい冬の到来を前にして、どのようにして過ごしておられるのかと思うと心が痛む。

 
          ~北海道胆振東部地震から1カ月を経て~  2018,10,8



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『かく録されたり、キリストは苦難を受けて、三日めに死人の中より甦へり、且その名によりて罪の赦を得さする悔改はエルサレムより始まりて、もろもろの國人に宣傳へらるべしと。汝らは此等のことの證人なり。視よ、我は父の約し給へるものを、汝らに贈る、汝ら上より能力を著せらるるまでは都に留れ』 ルカ24:46~49

『エルサレムを離れずして、我より聞きし父の約束を待て、ヨハネは水にてバプテスマを施ししが、汝らは日ならずして聖靈にてバプテスマを施されん』  
使徒行伝1:4,5

『聖靈をうけよ』とは、主の御命令である。 ヨハネ20:23

使徒たちは、主の御言葉に從ってエルサレムに入り、留まりをる高楼に登り、心を一つにして只管いのりを務めいた。

そしてペンテコステの日がやって来た。


五旬節の日となり、彼らみな一處に集ひ居りしに、烈しき風の吹ききたるごとき響、にはかに天より起りて、その坐する所の家に満ち、また火の如きもの舌のやうに現れ、分れて各人のうへに止まる。彼らみな聖靈にて満たされ、御靈の宣べしむるままに異邦(ことくに)の言にて語りはじむ。 使徒行伝2:1~4

主イエス様が斯く言い給い、聖書に斯く記された聖霊を私たちは戴いた。

受霊の徴として異言を語らされるのである。私たちが神の御前に身を低くし、ハレルヤ、ハレルヤと誉め称え、心の中で「聖靈を与えて下さい」と切に願い、祈り求めるならば、主はいとも優しく御霊を注ぎ満たしてくださるのである。

また受霊後の異言の祈りは、御霊による執成しの祈りであって、何事を願うにも異言をもって祈るならば、主はその祈りに聞き応えてくださるとロマ書8:26,27に記されているのである。

我は靈をもて祈り、また心をもて祈らん。我は靈をもて謳いひ、また心をもて謳はん。 コリント前14:15

神は靈なれば、拝する者も靈と眞とをもて拝すべきなり』との主の聖言はここに成就する。
 ヨハネ4:24

主の御前に来たり、父の約し給いし聖霊を戴き、そして正しき洗礼、即ち、主イエス・キリストの御名によるバプテスマ(浸礼)を受けて、全き救いに与ろうではないか。





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