道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2018年11月


さらば凡て我がこれらの言をききて行ふ者を、磐の上に家をたてたる慧き人に擬へん。雨ふり流漲り、風ふきて其の家をうてど倒れず、これ磐の上に建てられたる故なり。すべて我がこれらの言をききて行はぬ者を、沙の上に家を建てたる愚なる人に擬へん。雨ふり流漲り、風ふきて其の家をうてば、倒れてその顚倒はなはだし。 マタイ7:24~27   

既に置きたる基のほかは誰も据うること能はず、この基は即ちイエス・キリストなり。人もし此の基の上に金・銀・寳石・木・草・藁をもって建てなば、各人の工は顕るべし。かの日これを明らかにせん。 コリント前3:11~13

汝らは使徒と預言者との基の上に建てられたる者にして、キリスト・イエス自らその隅の首石(おやいし)
たり。おのおのの建物、彼に在りて建て合せられ、弥増に聖なる宮、主のうちに成るなり。汝等もキリストに在りて共に建てられ、御靈によりて神の御住となるなり。
  エペソ2:20~22



視よ、われ汝らに奥義を告げん、我らは悉とく眠るにはあらず、終のラッパの鳴らん時みな忽ち瞬間(またたくま)に化せん。ラッパ鳴りて死人は朽ちぬ者に甦へり、我らは化するなり。そは此の朽つる者は朽ちぬものを著、この死ぬる者は死なぬものを著るべければなり。此の朽つるものは朽ちぬものを著、この死ぬる者は死なぬものを著んとき 『死は勝に呑まれたり』 と録されたる言は成就すべし。 コリント前15:51~54


今、私たちが持っている肉体は、アダムの性質を持った朽つる肉体であるゆえに、何時かは死に直面しなければならない。

アダムは神の言われた「善悪を知るの樹は汝その果を食らうべからず、汝之を食らう日には必ず死ぬべければなり」との誡めを破って罪をし、死ぬべき者となって死んだ。

更に 「それ一人の人によりて罪は世に入り、また罪によりて死は世に入り、凡ての人、罪を犯しし故に死は凡ての人に及べり。」となり、「アダムと等しき罪を犯さぬ者の上にも死は王たりき。」に至った。 ロマ5:12,14

斯くの如く、人は皆死に定められているが、逃れる道は有るのだろうか。感謝すべき事は、死にて甦り給いしキリストの御霊を持つ者は、主の再臨の日には、生きていれば死なずして栄光体に化し、召されていれば甦って栄光体と化し、朽ちぬ者となり、主イエス・キリストと共に永遠に生きる者となるのである。

茲で大切なのは、救いを確かなものにして頂くことである。

「我らは彼にありて恩恵の富に随ひ、その血に頼りて贖罪(あがなひ)、すなはち罪の赦を得たり」
 エペソ1:7

「汝等もキリストに在りて真の言、すなはち汝らの救の福音をきき、彼を信じて約束の聖靈に印せられたり。これは我らが愛くべき嗣業の保証にして、神に属けるものの贖はれ、かつ神の榮光に譽あらん爲なり。 同1:13,14

水と霊のバプテスマを受ける事が大切である。



されど我らの國籍は天に在り、我らは主イエス・キリストの救主として其の處より來りたまふを待つ。彼は萬物を己に服はせ得る能力によりて、我らの卑しき状の體を化へて己が榮光の體に象らせ給はん。 ピリピ3:20

『なんぢら心を騒がすな、神を信じ、また我を信ぜよ。わが父の家には住居おほし、然らずば我かねて汝らに告げしならん。われ汝等のために處を備へに往く。もし往きて汝らの為に處を備へば、復きたりて汝らを我がもとに迎へん、わが居るところに汝らも居らん爲なり。汝らは我が往くところに至る道を知る』
トマス言ふ『主よ,何處へゆき給ふかを知らず、争(いか)でその道を知らんや』
イエス彼に言ひ給ふ『我は道なり、真理なり、生命なり、我に由らでは誰にても父の御許にいたる者なし』

ヨハネ14:1~6

先週、一人の愛する兄弟が天に召された。今日は聖言を記すに止め、証詞は後日に譲ろうと思う。  




大によばはりて聲ををしむなかれ 汝のこゑをラッパのごとくあげ わが民にその愆(とが)をつげヤコブの家にその罪をつげしめせ イザヤ58:1
 
なんぢ御言を宣傳へよ、機を得るも機を得ざるも常に励め。 テモテ後4:2


先日、中学・高校時の同期会があり、案内を戴いたので出席した。

札幌第二中学校(旧制)では五年間学び、高校三年となった。(その辺りの事は、「御霊の声」に記してある。)

同校には、札幌二中・札幌二高・札幌西高・定時制を含めた同窓会があるが、一方、同期会は旧友との交流の場所であり、昔日を思いだしながら、人それぞれに長い人生を歩んできて、積み上げられた大きな物を持っておられると感銘し、互いに気遣い温めあう変わらぬ友情を感じて一服の清涼剤を飲んだような心地がしたのである。

出欠はがきに、「ちょっと一言」という欄があり、近況を書くようになっていたので、胆振東部地震の直後に当地で大聖会が開かれ、多忙だったと証を記入したが、嘗ての紅顔の少年達も今は米寿を迎え、老春を謳歌する元気な方あり、一方、ご自身またはご家族に病の方あり、それぞれの思いを包まずに記してあった。

開催当日は記念撮影から始まって、配布されたプログラムに從ってスピーチや余興など幹事さんの巧みな司会により粛々と二時間に亘り進行し、最後は皆さん互いの健康と幸せを願って「万歳三唱」で終わったが、「ハレルヤ!」と叫びたい気分であった。

この度はこういうことで外出と相成ったが、福音を証するためには、家に留まっていてはならない。外に出ることだと思う。人に接し、何らかの接点を得る必要がある。お互いに心の琴線に触れあう所から始めれば良いのかなと思う。そこから「ハレルヤ」が始まり、救いに進むのだと思う。何事も主と偕に進もうと祈りつゝ。ハレルヤ!




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