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神は曾て御子を立てて萬(よろず)の物の世嗣となし、また御子によりて諸般(もろもろ)の世界を造り給へり。御子は神の栄光のかがやき、神の本質の像(かた)にして、己が権能(ちから)の言(ことば)をもて萬の物を保ちたまふ。また罪の潔(きよめ)をなして、高き所にある稜威(みいつ)の右に坐し給へり。           -へブル1:2,3-

今日は、御用の中で導かれて御使いの話をした。以前或る姉妹から、夜の祈祷会に集うと、天使が牧師の横に立って、御用を聞いている姿を見たり、自分を迎えには来ないが、帰りには家の近くまで送ってくれるという証を聞いた。普通の人には見えないが、神が霊眼を開かせて下さる人には見えるのである。

聖書には、御使いの事が多く出てくるが、みな神の御栄えのために、また人を活かすために用いられているのであって、人が興味本位で云々するのは慎まねばならぬが、そのような証を聞くと主の恵みを感じ、慰めや励ましを受けるは自然の理であると思う。

主イエス・キリストとはいかなるお方であるかを明確に記しているのがへブル書だが、特に、第1章と第2章は、御子イエスと御使いとを対比して記している。

先ず、名前についてであるが、天使長の名はミカエル(神の如き者)、乙女マリアに現れたのはガブリエル(神の人)であるが、これだけでも凄いことだと思うのだが、主イエスの名は更に勝っていて、主が「聖なる父よ、我に賜ひたる汝の御名」-ヨハネ17:11-と言われたように、イエスと云うのは、父の名で、神そのものの御名なのである。

主イエス・キリストは、御子と呼ばれるが、天使は、そのように呼ばれていない。

また、主イエスに対して「神の凡ての使いは之を拝すべし」とあり、御使いたちは「神は、その使いたちを風をなし、炎となす」と用いられる立場にある。主は拝されるお方であり、御使いたちは主を拝し仕える者である。

御子はまた「神よ」と呼ばれ、「歓喜(よろこび)の油を、その友に勝って注がれた」お方であり、「聖霊によって身籠り、聖霊に満たされて御用をされた」お方である。

大きな違いは、御使いは霊であって肉体を持たないが、主イエスは霊であると同時に肉体を持って現れたお方であるということである。

即ち「御使いはみな事へまつる霊にして、救を嗣がんとする者のために職(つとめ)を執るべく遣わされた者にあらずや」とあるが、主は「言(ことば)は肉体となりて我らの中に宿りたまへり」というお方である。-ヨハネ1:14- 肉体を持って現れ給うた訳は、「子等はともに血肉を具(そな)ふれば、主もまた同じく之を具へ給ひしなり。これは死の権力(ちから)を有つもの、即ち悪魔を死によりて亡し、かつ死の懼れによりて生涯奴隷となりし者どもを解放ち給はんためなり。」と、我らの罪の贖いの為に十字架に懸り、肉を裂き、血を流して救いを完成するためであった。感謝の極みである。ハレルヤ。

今日はこの聖言を味わいながら、聖餐式に与ったことである。