24 015 
                  駒ヶ岳・大沼国定公園
       
  
子をその道に從ひて教へよ 然らばその老たる時も之を離れじ
 -箴言22:6-

報道で周知のごとく、函館の近くの七飯町の七歳の男の子が5月28日に行方不明になった事件が大きく報じられた。

家族で隣町の鹿部町へ遊びに行った際に、この子が石を拾って人や車に投げつけるのを父親が見て、お仕置きとして帰路の山道で車から下ろして置き去りにし、後に探しに戻ったがいなかったというのが始まりであった。

警察、消防に自衛隊が加わって山中で連日大掛かりな捜索が行なわれたが見つからず、安否の程が案じられたが、6月3日に至って思いがけなくも、行方不明になった地点から5㎞離れた、捜索範囲外の鹿部町の陸上自衛隊の駒ヶ岳演習場の建物の中にいるのが発見された。

6日間何も食物はなく、水だけ飲んで生きていたという奇蹟に近いような出来事だ、それももさりながら、「やり過ぎだった」という父親の反省の弁も聞きいた。「ごめんな」と息子にあやまったという。何はともあれ、見つかって良かったなと云う気持がする。 親の子どもに対する躾けに就いていろいろな論議を生んだ事件であった。

翻って、「人の振り見て、わが振り直せ」の諺に倣い、クリスチャンとして子どもの教育はどうあるべきかを考えると、聖書がその鍵を握っていると思うのである。

先ずもって、親が神第一の信仰生活を実践し、模範を示してゆかなければあらない。子供は親の背中を見て育つ者だからである。その信仰の曩(さき)に汝の祖母ロイス及び母ユニケに宿りしおとく、汝にも然るを確信す-テモテ後1:5-とある如くである。

子どもには、環境の変化などにより、我が民はともすれば我にはなれんとする心あり-ホセア11:7-という時期があるかも知れぬ。けれども、その時こそ親の信仰と祈りと教えと諭しをもって子どもを助け、自立した信仰生活の歩みをするように導くことが大切だと思う。

今日は、箴言3:1~11を開いて学んだ。各々聖書を開いて、含蓄せられんことを!