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その日七人のをんな一人の男にすがりていはん 我儕(われら)おのれの糧をくらひ 己のころもを着るべし ただ我儕になんぢの名をとなふることを許して われらの恥をとりのぞけと 
イザヤ4:1

預言者イザヤは、いみじくも末の日における現代教会の姿を記している。

七人の女とは、キリストの御霊無き諸教会である。これらの教会は、神の御言葉である聖書をそのままに信ぜず、歪曲して己が教理・神学を生みだし、御霊の活発なる働きを知らず、イエス・キリストの御名による水のバプテスマを受けず、ただ単にキリスト教の看板を掲げているに過ぎない。

ヨハネ黙示録第1章11節に七つの教会があると記され、2章及び3章にその内容が詳述されている。この七つの教会とは、教会史を七つの時代に区分したものであって、教会は初代教会時代から始まって、今は七番目のラオデキヤ教会時代に当たっている。 3:14~22

ここを読むとき、正しく現在の教会の状態と合致すると言わざるを得ない。

『アァメンたる者、忠実なる真なる証人、神の造り給ふものの本源たる者かく言ふ.われ汝の行為(おこなひ)を知る。なんぢは冷(ひやや)かにもあらず熱きにもあらず、我は寧ろ汝が冷かならんか、熱からんかを願ふ。かく熱きにもあらず、冷かにもあらず、ただ微温(ぬるき)が故に、我なんじを我が口より吐出さん』 14~16節

神は、ご自身に対して冷かな人を嫌われる。当然、熱い心と思いとを以て誠心誠意信仰する人がお好きである。就中、御霊の熱心をもてことに当たる人は大いに喜ばれる。生温いお茶が不味いように、神は微温(ぬる)き信仰はお嫌いだと言われる。白黒どっちつかずで中途半端だからである。このような人や、教会は吐き出すと言われた。我等は、キリストの中に確固として留まるのみならず、用いられるために、常に御霊に満たされて熱心であらねばならない。

『なんぢ、我は富めり、豊なり、乏しき所なしと言ひて、己が悩める者・憐むべき者・貧しき者・盲目なる者・裸なる者たるを知らざれば、我なんぢに勧む、なんぢ我より火にて練りたる金を買ひて富め、白き衣を買ひて身を纏ひ、なんぢの裸體(はだか)の恥を露(あらは)さざれ、眼薬を買ひて汝の目に塗り、見ることを得よ』 15節

茲に、世の見方と神の見方の違いがある。例え地上に巨万の富を蓄え、誇ったとしても、それを以て神からの霊の物を一つだに買うことはできない。例え広々とした土地に壮大な邸宅を構え、金品に欠ける所なく、美食に飽き足りたとしても、神の前に何の意味があろうか。「愚かなる者よ、今宵なんぢの霊魂(たましい)とらるべし」と、一巻の終りではないか。

主は、『なんぢ我より火にて練たる金を買ひて富め』と言われた。金鉱石を溶鉱炉で溶かして一番底に沈む物は金である。それを精錬して純金にする。聖書の御言葉は正に純金である。神の御口から出でた日よりこのかた、どれ程の試練や迫害を通り抜けて今日に至っていることか。「ヱホバよ みことばは天にてとこしへに定まれり」 詩篇119:89 聖書は、神の言葉であり、真理である。恭しく頂くべきものである。書かれている救いの道をしっかり捉え、神の実子となることが肝要である。

次に主は言い給うた。『白き衣を買ひて身に纏ひ、なんぢの裸體の恥を露さざれ』と。これは主イエス・キリストの御名による水のバプテスマに他ならない。アダムとエバが罪を犯した後、皮衣を衣せられて、裸体の恥が覆われたように、我々も神の羔羊となって贖罪の血を流されたイエスを衣なければならない。

更にまた主は言い給うた。『眼薬を買ひて汝の目に塗り、見ることを得よ』と。これぞ主が我らに賜う約束の聖霊ではないか。パウロもサウロと呼ばれていた時に、主の光を見て盲目になり、その後、主の御告げによりアナ二ヤが彼の許に遣わされ、聖霊を受けた時に、彼の目から鱗(うろこ)のようなものが落ちて見ることができた。そしてバプテスマを受けたのである。使徒9:18 真理の御霊を受ける時、人をして真理をことごとく悟らせてくださるのだ。 ヨハネ16:13

斯く記されている故に、我らは冒頭の聖句の如き名のみの教会の人々のために祈り、水と霊こそ救いなりと、真理に立脚するように勧めるべきである。

  ※ 改題しました。 旧・主の名を称えることを許せ ⇒ 新・ラオデキヤ教会時代