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或る所で主イエス・キリストがお祈りをされた。それが終わったとき、弟子の一人が言った。「主よ、ヨハネがその弟子に教へし如く、祈ることを我らに教へ給へ」と。 ルカ11:1

主は、これに答えて、教えられた。「主の祈り」と言われている祈りである。

「天にいます我らの父よ、願くは、御名の崇められん事を。御国の來らんことを。御意の天のごとく、地にも行はれん事を。我らの日用の糧を今日もあたへ給へえ。我らに負債(おひめ)ある者を我らの免(ゆる)したる如く、我らの負債をも免し給へ。我らを嘗試(こころみ)に遇(あは)せず、悪より救ひ出したまへ」 マタイ6:9~13 ルカ11:2~4

祈りとは、何か?霊なる神との語らいである。単にご利益信仰のように願い事のみを並び立てるのではなく、最初に御名の崇められん事をとある如く、栄光を主に帰し奉る所から祈りは始まるのである。先ず、天地の創造者なる主を崇め奉る、これこそ造られた我らの為すべき事である。

次いで、御国の來らんことを祈れと主は言い給う。今や世界は混沌としている。人の犯した罪の故である。闇の世界の支配者である悪魔の手立てに嵌っている人々の如何に多きことよ。その中より救われる道は唯一つ、水と霊とのバプテスマに与る事のみである。而して主の再臨を待ち望めと主は言い給うのである。

御意が天で行われている如く、地に於いても為されたならば、如何に幸いであろう。教会はそういう所である。天国の雛形のような所である。やがては天国の一員となる、否既に神の子である我らである。主の御霊を受け、一つバプテスマを受けて、主の御名を衣せられ、主の御業を日々味わい、感謝と讃美を捧げつつ歩む、この至福の道を誰が奪い得ようか。

我らの日用の糧を今日もあたへ給へと祈れと主は言い給う。旧約のイスラエルの民は日ごとに降るマナを頂いた。今日の我らはイエス・キリストの御体なるパンと御血なるブドウ汁に与っている。即ち、教会で頂く聖餐である。また、聖書を繙き、御言葉を拝読する。即ち、霊の糧を頂ける。これにより我らの信仰は培われ、霊性は倍増する。そしてまた、凡ての必要を今日も豊かに与えられて行く。生ける神の御力を其処に見る。

負債ある者を免せと主は言われた。ああ、人を赦すことの如何に難きことか。だが、主は「人もし右の頬をうたば、左をも向けよ。下衣を取らんとする者には、上衣をも取らせよ」と言い給う。そして、主は、我ら凡ての者の罪を贖う為に十字架に懸かり、生命の代を払ってくださった。その十字架上で、主は「父よ、彼らを赦し給えへ。その為す所を知らざればなり」と祈られたのである。

我らを嘗試に遇はせず、悪より救ひ出したまへと祈れと主は言い給う。ペテロも斯く勧めている。慎みて目を覚しをれ、汝らの仇なる悪魔、ほゆる獅子のごとく歴廻(へめぐ)りて呑むべきものを尋ぬ。なんぢら信仰を堅うして彼を防禦(ふせ)げ。ペテロ前3:8,9

主の祈りは、言葉の祈りとして最高のものであり、模範を示している。

同時に、人皆顔が違うように、祈りの内容も千差万別であって様々な祈りがあって然るべきである。また言葉の祈りのみに留まらず、御霊の祈り、即ち異言の祈りがある。これは、御霊を受けた者のみが為しうる賜物である。エペソ6:18 我らは常時異言を以て主に祈り、主を崇め、感謝を捧げることができるのだ。
 
「我らは如何に祈るべきかを知らざれども、御霊みづから言ひ難き歎きをもて執成し給ふ」とは、異言の祈りの事である。ロマ8;26