イエスによる信仰は汝等もろもろの前にて斯る全癒を得させたり。
                            
 使徒行伝3:16


エルサレムの美しの門の傍らに毎日かかれてくる生まれながらの跛者(あしなへ)の人がいた。宮に出入りする人々から施済(ほどこし)を乞うためであった。彼は働くこともできず未来の希望も持てず、自分の身の不幸を嘆くのみだったに違いない。抱えてくる人とて彼に経済的支援をする余裕などなく、この場所へ連れてくるだけで精一杯だったことだろう。その日も彼はいつものように門の傍らに置かれ、宮詣でに来る人々に施しを乞うていた。

主なる神は、この人に目をとめられた。「神は智(かしこ)き者を辱しめんとて世の愚なる者を選び、強き者を辱しめんとて弱き者を選び、有る者を亡さんとて世の卑しきもの軽んぜれるる者、すなはち無きが如き者を選び給へり。これ神の前に人の誇る事のなからん為なり」 とある如く、彼はその場に於いて一番小さく、哀れな存在であった。 コリント前1:27~29

この時、ペテロとヨハネの二人が祈ろうとして宮へやってきた。そして彼に目をとめ、「我らをみよ」と言った。彼は何か受けることができるのかと思い二人を見つめると、ペテロが言った。「金銀は我になし、然れど我に有るものを汝に與ふ、ナザレのイエス・キリストの名によりて歩め」 そして右手を執って起こすと、不思議や奇蹟が起きた。即ち「足の甲と踝骨(くるぶし)とたちどころに強くなりて、躍り立ち、歩み出して、且あゆみ且をどり、神を讃美しつつ彼らと共に宮に入れリ。民みな其の歩み。また神を讃美するを見て、彼が前に乞食(こつじき)にて宮の美麗門に坐しゐたるを知れば、この起りし事に就きて驚駭(驚き)と奇異(あやしみ)とに充ちたり」 使徒3:6~10

この出来事を目撃した多くの人々がソロモンの廊に集まって来た。ペテロとヨハネにとって福音を語り、主イエス・キリストを証する絶好の時が巡ってきた。

ペテロは立ち上がって大胆に民に語った。『汝らは、この聖者・義人を否みて、殺人者(バラバ)を釈さんことを求め、生命の君を殺したれど、、神はこれを死人の中より甦へらせ給へり、我らは其の証人なり。斯くてその御名を信ずるに由りてその御名は、汝らの見るところ識るところの此の人を健(つよ)くしたり。イエスによる信仰は汝等もろもろの前にて斯る全癒を得させたり。・・・』 更に、『神アブラハムに告げ給はく 「なんぢの裔(すゑ)によりて地の諸族はみな祝福せらるべし」 神はその僕を甦へらせ、まづ汝らに遣し給へり、これ汝ら各人(おのおの)を、その罪より呼びかへして祝福せん為なり』 同3:14~26参照

二人が民に語っている時に、祭司長らが近づいてきて、群衆にイエスの事を引いて死人の中より復活したことを宣べるのを憂い、捕えて留置場に入れたが、勝利したのはどちらか? 先刻二人から福音を聞いた人々の中に男の数凡そ五千人が信じたとあるのだ。

教法師達からみれば、無学の凡人(ただびと)に過ぎない使徒たちは語るなと禁じても語り続け、拠り所のない人々をも用いて神は御業を為し遂げ、ご自身の福音を伝えしめ給うた。凄いことではないか。
 
癒やされたこの人も、自分を巡る使徒たちの命がけの伝道と迫害の嵐をつぶさに見て、奮い立ったことだろう。そしてまた自らも5千人の中の一人として主を信じ、聖霊のバプテスマと、主イエスキリストの名による水のバプテスマを受けて確かなる救いを得たことは想像に難くない。

イエスの御名に栄光あれ。ハレルヤ!