御國のこの福音は、もろもろの國人に證をなさんため全世界に宣傳へられん、而して後、終は至るべし     マタイ24:14

オリブ山に坐し給ふとき、弟子たち窃(ひそか)に御許に來りて言ふ 『われらに告げ給へ、これらの事は何時あるか、又なんぢの來り給ふと世の終とには何の兆(しるし)あるか』
イエス答へて言ひ給ふ 『なんぢら人に惑わされぬやうに心せよ。多くの者わが名を冒し來り 「我はキリストなり」と言ひて多くの人を惑さん。又なんぢら戦争(いくさ)と戦争の噂とを聞かん、慎みて懼るな。斯る事はあるべきなり、然れど未だ終にはあらず。
即ち 「民は民に、國は國に逆ひて起たん」また處々に饑饉と地震とあらん、此等はみな産の苦難(くるしみ)の始めなり。・・・』
  マタイ24:3~8

最近我が国の近辺できなくさい臭いが漂っている。己が力を誇示して他を脅そうとする気配を感じる。何か起きるのではないかと不安に思う人も少なくない。

だが、これは今に始まったことではなく、元を糺せば、人類の祖アダムとアバが犯した原罪により、罪の根が人の心を支配し、カインがアベルを殺したことを始めとして、嫉み、妬みなど良からざる思いを懐き、良からざる行動に走り、遂には自らの亡びを招いた歴史の繰り返しを見るのである。

アダムよりノアに至る人類初期の時代は、その罪の故に審かれ、洪水を以て滅んだ。次にはノア以後、現在を含めて将来に至る罪の世もまた審かれ、火を以て焼かれようとしている。 

世の人々は、斯く定められた神の経綸を知らない。或いは知ったとしても信じない。それはノアの時代の人々も同様であった。

神は、人を罪より救うために預言者を遣わし、覚醒させようと努められたが、人は信じようとはせぬゆえに、最後に神、人となり世に現れ、主イエス・キリストに由って救いを与える道を開き給うた。

我らは主イエスを信じ、水と霊のバプテスマを受けて新生し、目覚めて此の経綸を知り、神の側に立つことができるのである。

主イエス・キリストは救主として現れ給うたが、次には審判主として現れ給うのである。これを主の再臨という。その日その時を知る者なし、天の使たちも知らず子も知らず、ただ父のみ知り給うのである。既に来られたという人がいても信ずな、為し得べくば選民をも惑わさんとする故に惑わされるな。その日その時、主が栄光をもて天の雲に乗って降臨するを見、御使いをラッパの声をもって遣わし、我らを携挙してくださる御方こそ主イエス・キリストである。その両手には我らの罪の為に打たれた傷がある。              
マタイ24:23~36参照 ゼカリヤ13:6

我らは何時主が来られても良いように備えせよと勧められている。

新郎を迎える十人の処女(おとめ)の内、五人は愚かで五人は賢かった。愚かな処女は灯火をとったが油を携えず、賢い処女は油を器に入れて灯火とともに携えていた。新郎の到着が遅かったので皆微睡んだ。夜半に「新郎到着!」の知らせで飛び起きた。灯火に油を備えた賢い処女は新郎を迎えることができたが、愚かな処女は油が無く、灯火が消えそうになって新郎を迎えることができず、外の暗黒に追い出され、婚筵に入れなかったとある。 マタイ25:1~13 油とは、聖霊のことである。水と霊とのバプテスマを受けて主の来たり給う日を待とうではないか。