『キリスト・イエス罪人を救はん為に世に來り給へり』とは、信ずべく正しく愛くべき言(ことば)なり、其の罪人の中にて我は首(かしら)なり。 テモテ前1:15
パウロが弟子のテモテに贈った書の中で、救われる以前の自分を述懐し、今は主イエス・キリストにありて働く恵みを与えられていることを感謝している。
「われ曩(さき)には瀆(けが)す者、暴行の者なりしに、我を忠實なる者として、この職(つとめ)に任じ給ひたればなり」 同1:13
ステパノが石打の刑をもって殉教の死を遂げた時、サウロ(パウロ)は、ステパノの衣を足元に置き、その殺されるを可しとした。 使徒7:38、8:1
彼は、キリキアのタルソで生まれたユダヤ人で、エルサレムで育ち、パリサイ人の教法学者ガマリエルの足元で律法の厳しき方に遵いて教えられ、神に対して熱心な者であった。然しそれは神の智慧と知識によるものではなかった。 使徒22:3
余勢を駆って、彼は愈々主の弟子たちを恐喝(おびやか)し、殺害しようとして、矛先をダマスコにいる弟子たちに定め、行って捕縛し、エルサレムに連行しようと企て、大祭司の許に行き、ダマスコにあるユダヤ人の諸会堂に協力してもらうよう添書(そえぶみ)を請うた。 9:1,2
ダマスコに近づいたとき、天より光いでて、彼を環(めぐ)り照らし、『サウロ、サウロ、何ぞ我を迫害するか」』と「いう声を聞いた。「主よ、なんぢは誰ぞ」と問うと、「われは、汝が迫害するイエスなり。起きて町に入れ、さらば汝なすべき事を告げらるべし」と主が答えられた。 9:3~6
眩い光の為に盲目となったサウロの許へ主はアナニヤという弟子を遣わして言われる。『往け、この人は異邦人・王たち・イスラエルの子孫の前に我が名を持ちゆく我が選びの器なり』 と。そして、アナニヤの導きにより、サウロは再び見ることを得、聖霊にて満たされ、バプテスマを受けたのである。 9:12~19
主によって回心したサウロは、直ちに諸会堂にて、イエスの神の子なることを宣べ伝えた。聞く者は皆驚き、「こはエルサレムにて此の名をよぶ者を害(そこな)ひし人ならずや、又ここに來りしも之を縛りて祭司長らの許に曳きゆかんが為ならずや」と言った。サウロはますます能力(ちから)加わり、イエスのキリストなることを論証した。 9:20~22
実に鮮やかな変身である。「人よりに非ず、人に由るに非ず、イエス・キリスト及び之を死人の中より甦へらせ給ひし父なる神に由りて使徒となれるパウロ」と彼は云う。 ガラテヤ1:1
パウロが語る福音も、「人に由れるものにあらず、我は人よりこれを受けず、また教へられず、唯イエス・キリストの黙示に因れるなり」と証する如く、12使徒や他の人々から聞いたものではなく、主の御霊によって教えられたものであった。 同1:11,12
このように思う時、サウロまたの名はパウロの心の中に去来するものは、「われ信ぜぬ時に知らずして行ひし故に憐憫(あはれみ)を蒙れり。而して我らの主の恩恵(めぐみ)は、キリストイエスに由れる信仰および愛とともに溢るるばかり彌(いや)増せり」とある。 テモテ前1:13下、14
そして、『キリスト・イエス罪人を救はん為に世に來り給へり』とは、信ずべく正しく受くべき言なり、其の罪人の中にて我は首なり。然るに我が憐憫を蒙りしは、キリスト・イエス我を首に寛容をことごとく顕し、この後、かれを信じて永遠の生命を受けんとする者の模範となし給はん為なり。と記した。15,16節
主の聖徒を殺害するという大罪を犯した罪人の首ですら憐みを受けて救われるのなら、まして多くの人々が救われない訳がないではないか、と彼は言うのである。
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