主イエス様が公生涯に顕れ給うた時、多くの人がその為し給う徴をみて御名を信じた。

ニコデモもその一人であった。彼は夜密かに主を訪ねて言った。『ラビ、我らは汝の神より來る師なるを知る。神もし偕に在さずば、汝が行ふこれらの徴は誰もなし能はぬなり』 主は、この問いをきっかけとして、『人は水と霊とによりて生れずば、神の國に入ること能はず』 と、福音の真髄を語られたのである。
 ヨハネ3:1~5

主は、実に多くの大なる徴と不思議を行われた。人の絶対に為し得ぬ、神としての能力(ちから)を顕されたのである。

ガリラヤのカナでの結婚式で水を葡萄酒にする第一の徴を初めとして
(同2:1~11)
王の近臣の病で死なんばかりの子を癒して生かした第二の徴
(4:46~54)
更にプテスダの池で三十八年間病の床に臥していた人を癒して、床を取りあげて歩ましめ
(5:1~9)
五つのパンと二匹の魚をもて五千人を養うなど
(6:5~13)
聖書に記された、主が為したもうた徴・不思議は、枚挙の暇がないほどである。

これによって、主は栄光を顕わし、世の救い主なることを知らしめ、人々をして 『實にこれは世に來るべき預言者なり』 と言わしめたのである。

使徒ヨハネは、彼の福音書を書き終えるに当たり、「此等の事を録ししは、汝等をしてイエスの神の子キリストたることを信ぜしめ、信じて御名により生命を得しめんが為なり。」と述べた。(20:31)

そして主は、十字架に架り、地を流して私たちの罪の贖いの業を成し遂げ、三日目に死人の中より甦り、四十日の間しばしば弟子たちに現れて、神の國のことを語り、『聖霊を愛けよ』 と命じられた。昇天に際しては手を挙げて祝し給うたのである。

その時言われた御言葉は、マルコ伝16:15以下に記されている。

『全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣傳へよ。信じてバプテスマを受くる者は救はるべし、然れど信ぜぬ者は罪に定めらるべし。
信ずる者には此等の徴、ともなはん。即ち我が名によりて悪鬼を逐ひいだし、新しき言をかたり、蛇を握るとも、毒を飲むとも、害を受けず、病める者に手をつけなば癒えん』

語り終へてのち、主イエスは天に挙げられ、神の右に坐し給ふ。弟子たち出でて、遍く福音を宣傳へ、主も亦ともに働き、伴ふところの徴をもて、御言を確うし給へり。

イエス・キリストは昨日も今日も永遠までも變り給ふことなし。
 へブル13:8

主は、建て給いし教会にあって主の器を用い、主御自身の栄光を顕さんがために徴を為し、また私たちを祝福するために常に働き給うのである。
ハレルヤ!