3 キリストの神たる能力は、生命と敬虔とに係る凡てのものを我らに賜へり。是おのれの榮光と徳とをもて召し給へる者を我ら知るに由りてなり。

4 その榮光と徳とによりて我らに貴き大なる約束を賜へり、これ汝らが世に在る欲の滅亡(ほろび)をのがれ、神の性質に與る者とならん爲なり。

5 この故に励み勉めて汝らの信仰に徳を加へ、徳に知識を、

6、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に敬虔を、

7 敬虔に兄弟の愛を、兄弟の愛に博愛を加へよ。

8 此等のもの汝らの衷にありて弥増すときは、汝等われらの主イエス・キリストを知るに怠ることなく、實を結ばぬこと無きに至らん。

9 此等のものの無きは盲人にして遠く見ること能はず、己が旧き罪を潔められしことを忘れたるなり。

10 この故に兄弟よ、ますます励みて汝らの召されたること、選ばれたることを堅うせよ。若し此等のことを行はば、躓くことなからん。

11 斯くて汝らは我らの主なる救主イエス・キリストの永遠の國に入る恩恵(めぐみ)を豊に與へられん。
                                                ペテロ後1:3~11

主イエス・キリストの直弟子であったシメオン・ペテロ。十二使徒の一人に選ばれ、主はどこに行かれるにもペテロとヤコブ、ヨハネの兄弟を伴ってくださった。それ故に主の一番近くにいて、御言葉を聞き、御業を見ていた人物である。

更に、一章の終りでは、変貌山で主の稜威を拝し、『こは我が愛しむ子なり、我これを悦ぶ』と栄光の中に神の御声を聴いたと証している。

そのペテロが、私たち主によって新たに生まれ、神の実子となり、救いの価値が如何ばかり尊く類なきかを知る者に対し、愈々主に近づき、キリストの御形が我が中になるまで追い求めるべきだと勧めている。

キリストの神たる能力は、生命と敬虔とに係る凡てのものを私たちに与えてくださった。これは人には為し得ぬことである。


主は栄光を受くべき唯一のお方であり、徳については一点の影も無い完全無欠なお方である。このお方が私たちに貴く大なる約束をしてくだっさった。即ち永遠の生命を与えるという約束である。

水と霊との全き救いを頂いた者は皆、この約束に与ることができる。その保証を受けているからである。

ただ、注意すべきことは、この世にある欲に囚われてはならない、それは主から目を離すことであり、堕落への道に繋がる。

主が私たちの贖いのために十字架にかかり、御血を流してくださったのだから、神を喜ばせることに心を用い、神の性質に与ることが大切である。

具体的には信仰から始って、徳を加え、更に徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に敬虔を、敬遠に兄弟の愛を、兄弟の愛を拡げて博愛へと、階段を登るように、前向きに勉めて怠らず、益々励んで召されたること、選ばれたる事を堅うせよ、イエス様を見上げて進めよと励ましている。

その先には救い主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みがあるからだ。

ペテロは、殉教の死が近いと示されていた。だが、主の再臨と聖徒の復活の日を思うとき、善き備えを為せよと後に続く者たちへ何くれとなく言い遺し、勧める必要を感じていたのである。