「福音」とは、「良き音信」という意味だが、新約聖書に数多く出てくる。そもそもマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四書はタイトルからして「福音書」になっている訳であるし、新約聖書全体では多数を数えられる。ところが旧約聖書ではイザヤ書61章1節ただ1ヵ所である。これは少なからず驚きである。

イザヤ書の聖言は、こう記されている。
「主ヱホバの御霊われに臨めり こはヱホバわれに膏をそそぎて貧きものに福音をのべ傳へることをゆだね 我をつかはして心の傷める者をいやし俘囚(とらはれびと)にゆるしをつげ 縛(いまし)められたるものに解放をつげ・・・」


主イエス様が伝道の途次、ナザレで安息日に会堂に入り聖書を読もうとして立たれた時に、預言者イザヤの書を与えられたので、其の書を繙き、上記の聖言を見出して読まれた。読み終えて書を巻き、係りの者に返して坐し、こういわれた。「この聖書は今日なんぢらの耳に成就したり」と。 ルカ4:17~21

福音は、正しくイエス・キリストによって成就されたのである。主は言い給うた。「聖書は我につきて証するものなり」 ヨハネ5:39

旧約時代は、福音の準備が為され、イエス・キリストの出現によって、一気に花が咲いたのである。  コロサイ2:17参照

パウロは福音とは何ぞやを教えている。

「わが第一に汝らに傳へしは、我が受けし所にして、キリスト聖書に応じて我らの罪のために死に、また葬られ、聖書に応じて三日めに甦へり、ケパに現れ、十二弟子に現れ給ひしことなり」
 コリント前15:4

而して救いは如何にせば良いか。

福音を「信じてバプテスマを受くる者は救わるべし」 即ち、水と霊とのバプテスマを受ける事である。

是なんぢら初の日より今日に至るまで福音を弘むることに与るが故なり。我は汝らの衷に善き業を始め給ひし者の、キリスト・イエスの日まで之を全うし給ふべきことを確信す。
 ピリピ1:5,6