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共に食事の席に著きたまふ時、パンを取りて祝し、擘(さ)きて與へ給へば、彼らの目開けてイエスなるを認む、而してイエス見えずなり給ふ。かれら互に言ふ『途にて我らと語り我らに聖書を説明し給へるとき、我らの心、内に燃えしならずや』  ルカ24:30~34

主イエス・キリストが復活された一週の初の日に、主の御使いが先ずマグダラのマリヤに現れ、次いで他の女たちに現れて主の甦り給いしことを告げ、その後主御自身がマグダラのマリヤに現れ給うた。

その日の午後、主はエマオ途上で、主の甦りのことを訝しげに語り合いつつ歩む二人の弟子に近づき現れ給うた。然し彼らの目は遮られてイエスたるを認めることができなかった。

主が彼らに「歩みつつ互に何を語りあっているのか」と尋ねられた時、返答は「主が復活されたと聞いたが信じられない」という言葉であった。この二人に対して主は歩きつつ聖書の預言を挙げて懇懇と説き示し給うたのである。

遂にエマオに着き、留らんとして、食事の席についた時、主がパンを取って祝し、擘きて与え給うと、瞬時に彼らの目が開かれ、単に旅の道連れと思っていた人が、さにはあらず主イエス・キリストであった事実を見せられたのである。

私たちも主の聖餐に与ることによって主イエス・キリストに触れ、より深く主を知り、福音の奥義を悟らされるのである。

そこで二人はエルサレムへ急遽帰りみれば、十一弟子や共なる人々が「主は実に甦り、シモンに現れられた」と喜びの真っ最中。二人も証して今道にてありし事柄と、パンを擘き給うによりてイエスを認めし事とを述べた。

そこに主イエスが忽然として現れ、すっくと中に立ち「平安なんぢらにあれ」と言い給うた。

霊をみているのではないかと恐れる弟子たちに、主は「我が手わが足を見よ、これ我なり。我を撫でて見よ、靈には肉と骨となし、我にはあり、汝らの見るごとし」と言われたのである。

歓喜と驚愕と不信に包まれた弟子たちを前にして、主は炙りたる魚一切れを食し給うたのである。

何と不思議な主のお体であろうか。これこそ、永遠に活きる「榮光體」である。

パウロは、コリント前書15章35節以下に記して斯く述べた。即ち「死人いかにして甦るべきか、如何なる體をもて來るべきか」と問い、「死人の甦りもまた斯くのごとし。朽つる物にて播かれ、朽ちぬものに甦へらせられ、卑しき物にて播かれ、光榮あるものに甦へらせられ、弱きものにて播かれ、強きものに甦えらせられ、血気の體にて播かれ、靈の體に甦へらせられん。血気の體ある如く、また靈の體あり」と。

我ら水と霊のバプテスマをうけた者は、主と同じく、甦りの日には、血気の體ではなく、靈の體に甦えらせられるのである。 感謝すべきかな、ハレルヤ

されど我らの国籍は天に在り、我らは主イエス・キリストの救主として其の處より來りたまふを待つ。彼は萬物を己に服はせ得る能力によりて、我らの卑しき状の體を化へて己が榮光の體に象らせ給はん 
ピリピ3:20,21