イエス言ひ給ふ 『なんぢらには神の國の奥義を與ふれど、外の者には、凡て譬(たとへ)にて教ふ』 マルコ4:11
人々の聴きうる力に随ひて、御言を語り、譬ならでは語り給はず、弟子たちには、人なき時に凡ての事を檡き給へり。 同4:33,34
主イエス・キリストは民衆に語る時は、神の国の奥義を地上の物事に置き換えて、譬をもって説かれたのだが、弟子たちに語る時は、奥義そのものを掘り下げて語られたのである。弟子たちにとって主の教室は、神学校であった。
多くの人は神の業を見ても信ぜず、聞いても悟らない。だが主は、聴く耳を持て、見る目を持て、而して悟る心を持てと言い給う。
世の智者、学者には神の事は分からない。なぜか?頭脳をもって考えるからである。
しかし真理の御霊を受ける時、御霊は私たちを導いて真理を悉く悟らせてくださるのである。御霊は凡ての事を究め、神の深き所まで究めておられるからである。
全き頴悟(さとり)の凡ての富を得て、神の奥義なるキリストを知らん爲なり。キリストには智慧と知識との凡ての宝藏(かくれ)あり。 コロサイ2:2,3
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