それ十字架の言は亡ぶる者には愚かなれど、救はるる我らには神の能力(ちから)なり。
録して 『われ智者の智慧をほろぼし、慧き者の慧を空しうせん』 とあればなり。世は己の智慧をもて神を知らず(これ神の智慧に適へるなり) この故に神は宣教の愚をもて、信ずる者を救ふを善しと為給へり。
ユダヤ人は徴を請ひ、ギリシャ人は智慧を求む。されど我らは十字架に釘けられ給ひしキリストを宣傳ふ。
これはユダヤ人には躓物(つまづき)となり、異邦人に愚となれど、召されたる者にはユダヤ人にもギリシャ人にも神の能力、また神の智慧たるキリストなり。神の愚は人よりも智(かしこ)く、神の弱は人よりも強ければなり。

コリント前1:18~25

イエス・キリスト及びその十字架に釘けられ給ひし事のほかは、汝らの中にありて何をも知るまじと心を定めたればなり。・・・わが談話も、宣教も、智慧の美しき言によらずして、御霊と能力との証明によりたり。これ汝らの信仰の、人の智慧によらず、神の能力に頼らん爲なり。 同2:2~5


この処、春なお遠い寒中ではあるが、お導きがあって、新しく色々な方が教会に来られる。導いた信者方が予め福音を語り、水と霊のバプテスマに就いて語って下さっているので、新しい方も水と霊を受ける心積りで来ておられるので、話の進め方は早い。

「ハレルヤ」と祈って聖霊待望会を始めると、直ぐにも聖霊が降り、異言に変わってお祈りを為れる。主イエス様が側に立たれて、御霊を注いでおられるのを感じ、畏れ、慄いて聖名を崇める瞬間である。

次いで、予め準備万端整えた洗礼式場に移っていただき、更衣室で洗礼衣に着替え、牧師の先導で水に入っていただく。皆さん、寒中ながら堂々と入り、「主イエス・キリストの御名によってバプテスマを施す」との声とともに全身浸礼を受ける。祝福の祈りを受けて水から出て、次は洗足式である。椅子に座り、用意した盥で左右の足を、同じく「主イエス・キリストの御名により」洗足し、「おめでとう!」 「ハレルヤ!」と喜びを分かち合う。

、最後に会堂に戻って「頌栄・祝祷」をし、救いに関わる式を終えるのだが、一人の人救われなば、天にて歓喜あるべしとある如く、教会にとってこの霊の喜びは何物にも代えがたいものである。

安息日礼拝、日曜聖会、祈祷会と道央教会では行っているが、平日も訪ねてくる方がおられ、お祈りや救いやがあって、イエス様が働いていらっしゃる事を感謝している。ハレルヤ!