道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

カテゴリ: 2017-聖言・証

          

fuyu27-1280 クリスマス


ハレルヤ ブログの読者の皆様へ、心よりクリスマスのお祝詞を申しあげ、合わせて主イエス・キリストより賜う平安と祝福の豊ならんことをお祈り申し上げます。

  今日ダビデの町にて汝らの爲に救主うまれ給へり、
  これ主キリストなり。

                                         ルカ伝 2:11


                 馬槽の中に 生れ給いし
                 羔羊なる主は 救い主なり
                 天には栄光 地には平和
                 人には恩恵 あれと歌いぬ

                        霊讃歌 6 クリスマス 3節 


          
 ノア ノアの伝道



我エホバの前に何をもちゆきて高き神を拝せん 燔祭の物および當歳の犢(こうし)をもてその御前にいたるべきか 
エホバ数千の牡羊 萬流の油を悦びたまはんか 我愆(とが)のためにわが長子を献げんか 我霊魂の罪のために我身の産を献げんか 
人よ彼先に善事の何なるを汝に告げたり エホバの汝に求めたまふ事は唯正義を行ひ憐憫を愛し謙遜(へりくだ)りて汝の神とともに歩む事ならずや 
ミカ6:6~8

真の礼拝とは何かを預言者ミカは伝える。私たちは何を持って神の御前に出たら善いのだろうか。

レビ記1章1~9には燔祭の供え物について記されているが、神の前に受納(うけいれ)給うように供えよとある。神の御意に適った献げ方が大切ということである。祭司はこれに随い牡牛の首(かしら)に手を按き、屠り、神の前に贖いの血を注ぎ、薪の上に首と脂を並べ、臓腑と足は洗って乗せ、火で焼いた。全焼の献げ物であった。

アベルとカインの供物はどちらが眷みられただろうか?アベルであった。 サウル王はサムエルの命に従わず、敵の物を分捕って神に捧げようとしたが、忌み嫌われ、王位を失墜するに至った。またバルナバの真心よりの献金は祝福を得たが、アナニヤとサッピラの偽りより出た献金は呪いを招いた。

大切なことは、神の義を行い、人に憐憫を施し、神の御前に謙遜って神とともに歩む事だと教えている。

エノク神と偕に歩みしが 神かれを取りたまひければをらずなりき 創5:24

ノアは義人にして其世の完全き者なりき ノア神と偕に歩めり 創6:9

我いふ、御霊によりて歩め、さらば肉の欲を遂げざるべし。 ガラテヤ5:16
もし我ら御霊に由りて生きなば、御霊に由りて歩むべし。 同5:25

今年も余す所1週間ほど、大感謝をもって年の瀬を歩んで参りましょう!

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捕囚の身となってペルシャの都シュシャンにあり、アルタシャスタ王に酒人として仕えていたネヘミヤ。彼の許に故郷イスラエルから兄弟ハナ二がやって来た。「エルサレムの有様や如何に」と尋ねると、民は患難と辱めとに遭い、石垣は崩され門は火に焚けたとの悲しい返事。

泣き悲しみ断食し天の神にネヘミヤは祈る。そして心中深くエルサレムの再建を願う志を得た。

王に酒を奉る日に、王はネヘミヤの顔の憂色をみて訳を問われたので、包み隠さずに話をすると、王は理解を示して賛同し、エルサレムの総督として供を付けて旅立たせてくれたのである。

彼がエルサレムに到着すると、エルサレムの再建に反対する近辺の総督サンバラテやトビヤ、ガシムなどいう人々がいた。ネヘミヤは祭司たちに呼びかけて崩れた城壁の再建に取り掛かる。これを知ったサンバレテらが立ち向かってきた。ネヘミヤらを懼れさせ、工事を止めさせようとしたのである。茲においてネヘミヤらは神に祈りつつ、人員の半ばは工事をし、半ばは武器や鎧を身に着けて石垣を築き、事ある時にはラッパを吹いてそこに集まり、一致団結して昼夜を分かたず52日間で工事を行った。かのゼルバベルも共にいた。ネヘミヤは十一年間総督としての禄を食まず無報酬で働いた。

こうしてエルサレムの城壁が再建したとき、次に必要なのは信仰の再興であった。彼らは、学士エズラにモーセの律法の書を携えて来て読み聞かせることを願ったのである。エズラは手作りの台に立って書を開き、朗々と読み、神に祈り、民はこれに和した。民はまた御言葉を聞いて泣き、涙した。

ネヘミヤやエズラは言った。「泣くなかれ、ヱホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかし」と。

次いで彼らは七月の節会(せちえ)と聖会を開き、神を称えることをもって喜びとした。

その時エズラや祭司、レビ人によって読まれた聖書の御言葉の中より・・・。

汝は重々(かさねがさね)も憐憫を垂れて彼らを棄たまはず 晝は雲の柱その上を離れずして之を途に導き 夜は火の柱離れずして之を照し その行くべき路を示したりき 汝また汝の善霊(よきみたま)を賜ひて彼らを訓(おし)へ 汝のマナを常に彼らの口にあたへ また水を彼らに與へてその渇をとどめ 四十年の間かれらを荒野に養ひたまひたれば 彼らは何の缼る所もなく その衣服も古びず その足も腫れざりき 而して汝諸国諸民を彼らにあたへて之を各々に分ち取しめ給へり・・・斯くてまた汝は彼らの子孫を増て空の星のごとくならしめたり・・・ ネヘミヤ9:10~23上

エルサレムの石垣の完成に当たっては、祭司やレビ人挙って集まり、楽器を手に取り讃美と感謝を神に捧げたのである。

その日みな大なる犠牲(いけにへ)を献げて喜悦を盡すせり 其は神かれらをして大いに喜び楽しませたまひたればなり 婦女小児までも喜悦り是をもてエルサレムの喜悦(よろこび)の聲とほくまで聞えわたりぬ 12:43

我らが集う大聖会もまた斯くやと思う。ハレルヤ!

             

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汝らが我が名によりて願ふ事は、我みな之を為さん、父、子によりて榮光を受け給はんためなり。何事にても我が名によりて我に願はば、我これを成すべし。 
ヨハネ14:13,14

汝等のすべて求むる物をば、我が名によりて賜ふべし。なんぢら今までは何をも我が名によりて求めたることなし、求めよ、然らば受けん、而して汝らの喜悦(よろこび)みたさるべし。  同16:23,24

我らが神に向ひて確信する所は是なり、即ち御意にかなふ事を求めば、必ず聴き給ふ。斯く求むるところ、何事にても聴き給ふと知れば、求めし願を得たる事をも知るなり。  ヨハネ第一書5:14,15

王かれに言けるは 后エステルなんぢ何をもとむるや なんぢの願意は何なるや 國の半分にいたるとも汝にあたふべし   エステル書5:3

祈ることは大切である。それは呼吸をするようなもの。絶えず霊と真とをもって祈り、上からのものを頂いて行くことができる。

神に近づけ、さらば神汝らに近づき給はん。主イエス様が私たちを愛し、全幅の祝福を与えようとしておられることは、これらの御言葉に込められている。神の栄光が顕れるように祈って進みましょう。ハレルヤ!

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改訂聖書が発売された。いのちのことば社発行の聖書 新改訳 2017」 である。
常用している文語訳聖書とは、章節共に合致しているので、馴染み易いと思う。
片や日本聖書協会の新共同訳に続く新しい聖書の訳業も進展し、発行間近と待たれるところ。
とまれ聖書の根幹は、主イエス・キリストを証するものであり、信じて聖名により生命を得しめん為(ヨハネ20:31)であるから、真の福音である「水と霊」が証されていくように祈るや切である。





サマリヤのスカルの井戸の傍で、旅路に疲れた主イエス様が一休みしておられた。時はお昼に近く、弟子たちは食物を買いに町に出ていた。そこへ水を汲みに来たサマリヤの婦人と主との会話が始まる。

主が語られた話しの内容は、「活ける水」すなわち聖霊を受ける事に就いてである。イスラエルの先祖ヤコブが掘った井戸水は一時の渇きを癒すのみであるが、私が与える水を飲む者は永遠に渇くことなく、その人の中で泉となり、永遠の生命の水が湧き出てくると言われた。

そのような素晴らしい水ならばぜひ戴きたいと婦人は切望する。

語り合う中に、主がこの婦人の素性を悉く知っておられたので、婦人は驚き、主を預言者と認め、町に出て行って多くの人に「キリストかもしれない」と証したので、皆が集まってきて、主のお言葉を聴きたいと言い、主はここに二日留まって語られたので、多くの人が主を救い主と信じたのである。

一方、食事を買って主の許に返ってきた弟子たちは主に食事を勧めた所、主は「我には汝らの知らぬ我が食する食物あり」と答えられた。その食物とは、

『われを遣し給へる者の御意を行ひ、その御業をなし遂ぐるは、是わが食物なり。
なんぢら収穫時(かりいれどき)の來るには、なほ四月ありと言はずや。我なんぢらに告ぐ、目をあげて畑を見よ、はや黄みて収穫時になれり。刈る者は、價を受けて永遠の生命の實を集む。播く者と刈る者とともに喜ばん為なり。倮諺(ことはざ)に彼は播き、此は刈るといふるは、斯において眞なり。我なんぢらを遣して労せざるしものを刈らしむ。他の人々さきに労し、汝らはその労を収むるなり』 ヨハネ4:34~38

主イエス様の欲する食物とは、御言葉を宣伝えることである。種まきをし、刈り入れをすることを、私たちも喜びとしよう。

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全世界を巡りて凡ての造られし者に福音を宣伝へよ。
 信じてバプテスマを受くる者は救はるべし。
マルコ16:15


安息日礼拝で副牧師からマリ伝道の証を聞いた。

レンタカーの運転手が先ず水と霊を受け、次々に救いがあったと・・・。

主イエス様の働きに感謝する! ハレルヤ!

なんじ御言を宣伝へよ、機(おり)を得るも機を得ざるも常に励め。
 
テモテ後4:2



『わが恩惠(めぐみ)なんぢに足れり、わが能力(ちから)は弱きうちに全うせらるべければなり』   コリント後12:9


使徒パウロは、神によって大いに用いられた人である。常に福音伝道の第一線に立ち、新しい地に入り、教会の発展のために華々しい働きをした。そして、それに相応しい成果を挙げていた。だが、そのために人一倍の苦しみに遭い、迫害にもあった。 同書11章

人は賛辞を贈るだらう。素晴らしい働きだと!

だが、彼は増長するような浅はかな人ではない。「その讃(ほめ)らるゝ所によりて人をためす」のである。 (箴言27:21

むしろパウロは、「もし誇るべくば、我が弱き所につきて誇らん」という。 11:30

更に彼は証として、主の顕示(しめし)と黙示を語る。12:1~4 ここで云う一人の人とは、パウロ自身を指していると言って良かろう。十四年前に第三の天にまで取り去られたりと言う。パラダイスを見てきた体験を語っている。このような経験をしたことを人に語れば、過大に評価されよう。だが、それによって高慢にならぬように肉体に一つの刺(とげ)が与えられている、即ち高ぶることの無いように我を撃つサタンの使なり、と。 5~7

「刺」とは何であったか?明確ではないが、病気と考えられる。 ガラテヤ4:13,14 には、パウロの肉体には他人が見て試練(こころみ)となる者があったのに、卑しめず、嫌わず、神の使いの如く、キリスト・イエスの如く迎えてくれたとある。神様を信じている者にどうしてこのような病があるのだろうということであろう。筆者自らもそのような者だから良く分かる。

彼は悩み、三度まで取り去ってくださいと主に求めたが、主は言いたもう、

『わが恩恵なんぢに足れり、わが能力は弱きうちに全うせらるればなり』 然ればキリストの能力の我を庇はんために、寧ろ大いに喜びて我が微弱(よはき)を誇らん。この故に我はキリストの為に、微弱・恥辱(はづかしめ)・艱難(なやみ)・迫害・苦難(くるしみ)に遭ふことを喜ぶ。そは我よはき時に強ければなり。 9,10

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今月1日~13日、マリ伝道が行われ、6名の先生方が主に遣わされた。副牧師も導かれて感謝。多くの水と霊が為されて帰国する。篤きお祈りに感謝致します!     ハレルヤ!  
(改訂 11:16)

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