道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

カテゴリ: 2019-聖言・証



 全地よヱホバにむかひて歓(よろこ)ばしき声をあげよ
 欣喜(よろこび)をいだきてヱホバに事(つか)へ うたひつゝその前(みまへ)にきたれ
 知れヱホバこそ神にますなれ われらを造りたまへるものはヱホバにましませば 我儕(われら)はその属(もの)なり われらはその民 その草苑(まき)のひつじなり
 感謝しつゝその門(みかど)にいり ほめたゝへつゝその大庭にいれ 感謝してその名(みな)をほめたゝへよ
 ヱホバはめぐみふかく その憐憫(あはれみ)かぎりなく その真実(まこと)よろづ世におよぶべければなり

                                                                   詩篇100篇

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=最近の証し=
◎令和元年最初のロシア人伝道の実が結ぶ。小樽港に車で伝道に行くと埠頭の側の道を一人のロシア人が市街の方向に向かって歩いているのに出会った。一旦行き過ぎたのだが、戻って声を掛け、「札幌から伝道にきているのですが、教会に行きませんか」と言うと、「行きます」という返事である。沿海州から来た若い船員さんだった。教会に着いて聖霊待望をすると、すぐに受霊し、次いで主イエス・キリストの名によって洗礼を受け、大変喜ばれた。終わってから小樽の市街まで送っていくと、「買い物があります」というので別れたが、こうして又一人救われて感謝であった。


◎道東の知床に転勤されたA兄弟、教職に携わっているが、前任地では、新参者は受け入れて貰えぬ環境で、厳しい状態に追い込まれたが、神様が働いて、職場そのものが無くなり、惜しまれて転勤という形になった。新任地には良き先輩や理解者何人もいて、校舎は新しく、環境も良く、思いきり仕事ができると感謝しておられる。
なんぢら神の御意を行ひて約束のものを受けん為に必要なるは忍耐なり。『いま暫くせば、來るべき者きいたらん、遅からじ。』 
へブル10:36,37


われ必ず、なんぢを恵み恵まん、なんぢを殖し殖さん へブル6:14 

神は、アブラハムを祝福すると約束して、御自身より勝る者がいないので、己を指して誓われた。

即ち、アブラハムが獨子イサクを捧げたので、「我大に汝を祝み又大に汝の子孫を増して天の星の如く濱の沙のごとくならしむべし」と誓って約束されたのである。

この祝福は、アブラハムへの約束であると共に、その裔である主イエス・キリストによって私たちに約束された祝福である。


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今年のGWは、10日間の大型連休であった。この間に皇室の御代替わりがあり、元号が、平成から令和に変わった。
この間に教会もいろいろなことがあった。先ず第一は、恒例の関東大聖会に家族と聖徒方と共に出席し、大いなる祝福に与ったことである。

第二に、それに続いて教会に、聖徒方に祝福が注がれたことである。

毎週の礼拝はもとより、結婚式や祝福祭、聖別祭などが続いて行われた。新しいことが主によって為されて感謝であった。

結婚式は、函館在住の兄弟姉妹であった。主イエス・キリストの御名により誓約をし、祝福を受けて人生の出発をされた。

最果ての地、知床に赴任されたA兄弟の住居の聖別とお仕事の祝福祭が行われ、冬は流氷に閉ざされる酷寒の地で情熱を燃やして進まれる兄弟に祝福あれと祈った。

ヴォーカル教室「PROVE」を開いているS姉妹のLIVEは楽しかった。市内の貸スタジオで土、日の2回に分けて生徒さん方が歌うのである。皆さん熱唱し、最後にS姉妹がプロの歌声(今回は英語4曲)を披露して終わったのであるが、私たちの役割は、礼拝後に行ってこのLIVEが祝福されるように祈ることであった。

今日メールで届いたお祈りの問題は、高校生のK君とO君とからで、互に別々の学校のチームでサッカーをやっているのだが、共に勝ち上がってきて、今日の試合でぶつかることになった。全力を尽くすから勝てるように祈ってほしいと云うことである。

K君の母親は信者で、O君の母親は未信者なので、今日は息子たちの試合を観に車で一緒になるから、行きしなに伝道をし、帰りには教会に連れて来たいという伏線もあって、楽しみに祈らされています。
 



日の出る處より没(い)る處までの列國(くにぐに)の中に我名は大ならん 又何處(いづこ)にても香と潔き献物(ささげもの)を我名に献げん そはわが名列國の中にて大なるべければなりと萬軍のヱホバいひ給ふ  マラキ1:11

旧約時代にヱホバと称された神が、我が名は日の出る處より没する處までの国々の中に大ならんと言い給うた。即ち、日の出る国「日本」から始まって、日の没する多くの国々に至るまで福音が宣伝えられ、主なる神の御名が崇められるという預言である。

そして、その神が言われる 「我が名」 とは何か。言うまでもなく 「イエス」 である。

「あなたは神のお名前を御存じですか?」と問われる時に、答えられないクリスチャンが世に多くいる。

使徒行伝を読むと、ここに記されている神の御名は全部 「イエス」 であって、他の名はないことを知るのである。

イエス、又、イエス・キリスト、主イエス・キリストとあり、全部 「イエス」 である。

主の使徒たちは皆、イエス・キリストの御名によってバプテスマを施し、病を癒し、悪鬼を追い出した。それによって 「主イエスの名が崇めらる」 となったのである。
 使徒19:17

私たちは、それぞれに眞の福音「水と霊」を携え、主イエス・キリストの名を高く掲げてて進み行こうではありませんか。



我らはユダヤ人・ギリシャ人・奴隷・自主の別なく、一體とならん爲に、みな一つ御霊にてバプテスマを受けたり。而してみな一つ御霊を飲めり。 コリント前12:13

主イエス・キリストは、全世界の人々を救わんとして来り給うた。人種・国籍・言語などの様々な壁を超えて、神を信じ、愛する人々を求めておられる。

異邦人であるコルネリオがペテロを招いた時、ペテロは口を開いてこう言った如くである。
『われ今もことに知る、神は偏ることをせず、何れの國の人にても神を敬ひて義をおこなふ者を容れ給ふことを。神はイエス・キリスト(これ萬民の主)によりて平和の福音をのべ、イスラエルの子孫に言をおくり給へり。・・・』
 使徒10:34~

また、斯く言う。
されば記憶せよ、肉におりては異邦人にして、手にて肉に行ひたるかの割礼ありと稱へらるる汝ら、曩(さき)にはキリストなく、イスラエルの民席に遠く、約束に属する諸般の契約に與りなく、世に在りて希望なく、神なき者なりき。されど前に遠かりし汝ら今キリスト・イエスに在りて、キリストの血によりて近づくことを得たり。・・・そはキリストによりて我ら二つのものを一つ御霊にありて父に近づくことを得たればなり。
 エペソ2:11~

水と霊との救いを受けた者同士が一つになり、神の教会となり、互に主イエス・キリストに在って兄弟姉妹と呼び合えるのだ。






イエス言ひ給ふ 『我は復活(よみがへり)なり、生命(いのち)なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。凡そ生きて我を信ずる者は、永遠(とこしへ)に死なざるべし、汝これを信ずるか』 ヨハネ11:25

主イエス・キリストは、ラザロを死後四日目に墓の中から甦らせ、これを見た多くの人が、これこそ救い主であると信じた。

そして、主イエス・キリストは自ら私たちの罪のために十字架に釘けられて死に、葬られて、三日目に復活された。即ち死に勝利し、死人の中から初穂となって復活されたのである。

復活された主はガリラヤに行き、十一使徒も行って主に謁見えて拝した。主は言われた。

『我は天にても地にても一切の権を與へられたり。然れば汝ら往きて、もろもろも國人を弟子となし、父と子と聖霊との名によりてバプテスマを施し、わが汝らに命ぜし凡ての事を守るべきを教へよ。視よ、我は世の終まで常に汝らと偕に在るなり』 マタイ28:18~20

教会は、主の御命令を果たす務めがある。喜びをもって進んで行きたい。



大祭司いふ 『われ汝に命ず、活ける神に誓ひて我らに告げよ、汝はキリスト、神の子なるか』 
イエス言ひ給ふ 『なんぢの言へる如し。かつ我なんぢらに告ぐ、今より後、なんぢら人の子の全能者の右に坐し、天の雲に乗て來るを見ん』
  マタイ26:63,64

総督、問ひて言ふ 『なんぢはユダヤ人の王なるか』 イエス言ひ給ふ 『なんぢの言ふが如し』  同27:11   

主イエス・キリストは、十字架に懸けられる前に二人の審判者による裁きを相次いで受けられた。先なる一人はユダヤ教の大祭司カヤパであり、後なる一人はロマの総督ピラトであった。

二人の尋問に対して主イエス・キリストは的確に答えられた。

大祭司の問いに対して、主はご自身の神性を言い表されたのである。それは何者も犯すべからざる絶対的なものであった。

総督の問いに対しては、ユダヤの民が長い間、待望していたユダヤ人の王であることを宣言されたのである。

これは真理であり、奥義である。

この世の司には之を知る者なかりき、もし知らば栄光の主を十字架に釘けざりしならん。
 コリント前2:8

御子は肉によれば、ダビデの裔より生れ、潔き霊によれば、死人の復活により大能をもて神の子と定められ給へり、即ち我らの主イエス・キリストなり。 ロマ1:3


御國のこの福音は、もろもろの國人に證をなさんため全世界に宣傳へられん、而して後、終は至るべし。  マタイ24:14

今は何の時か、末の世である。罪の故に滅亡に日が迫っているが、同時に神の救いの御業が顕著に為されている時でもある。

教会に於いては、聖霊の働きが為され、水と霊との救いが行われている。その火が燃えさからんことを祈る。


なんぢら時を知る故に、いよいよ然なすべし。今は眠りより覚むべき時なり。始めて信ぜし時よりも今は我らの救近ければなり。夜ふけて日近づきぬ、然れば我ら暗黒の業をすてて光明の甲を著るべし。ロマ13:11,12 

神いひ給ふ『われ恵みの時に汝に聴き、救の日に汝を助けたり』と。視よ今は惠のとき、視よ今は救の日なり。  コリント後6:2

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