道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

カテゴリ: 2010-聖言・証

   

      P1000748_edited1 今朝の東の空

          ク リ ス マ ス

初めてのことですが、今年最後の安息日礼拝、クリスマス礼拝、会堂建設10周年感謝集会を一日かけて行いました。

遠くより近くより大勢の兄弟姉妹が集い讃美と感謝をささげ、その後楽しい愛餐会で兄弟姉妹方の恵まれた証を聞きました。

天気予報では、北海道の日本海側は大荒れの予報でしたが,札幌は最高温度がー3度と低かったものの、新しい雪も降らず風も弱く、天候が守られ感謝でした。

● へブル書6:14

われ必ず、なんぢを恵み恵まん、なんぢを殖し殖さん

今年一年講壇に掲げた聖言です。

神は、約束を嗣ぐ者に御意の変わらぬことを充分に示さんと欲して誓いを加えてくださいました。神の言い給いしことは必ずなるべしと信じ、下には永遠の腕ありと信じて行けば、必ず守ってくださる神様です。

兄弟姉妹みな良き証が与えられて喜んでいました。ハレルヤ!

● マタイ伝1:21

かれ子を生まん、汝その名をイエスと名づくべし、己が民をその罪より救ひ給ふ故なり

インマヌエルと称えられた主、それは 「神われらと偕に在す」 と言う意です。

正しく聖霊は我らの心の中に住み給うて、「アバ父よ」と呼ばしめ給う故に感謝です。

● イザヤ書56:7,8

7 我が家はすべての民のいのりの家ととなえらる

10年前の献堂式の時、集われたある先生に御霊が臨み、預言して言われました。

「ここは祈りの家、永久までも我は守らん」

と。

教会を預かるものとして重みのある心に残る預言として受け止めました。

北海道という寒冷地の特殊性から言って、温暖な地方とは桁違いの、設備費や燃料費が掛かりますが、主は毎年必要を満たしてくださいました。

今年も冷暖房機の取り換えや、床暖房のボイラー交換、ロードヒーテイング工事などをしましたが、主はそれらの必要を与えて下さり、合わせて工事関係者の救いも為されました。

8 我さらに人をあつめて既にあつめられたる者にくわへん

昭和64年の聖言ですが、いつも斯くあれと願っていることです。そのためには水と霊をおこなう以外にはありません。

主の御再臨の日まで異邦人の数満つるために伝道をして行きたいと思います。

聖餐式

● コリント前11:23-26

       Photo_2  安息日の夕べ

   日の出る方より登る者

● ヨハネ黙示録7:1-3

2 一人の御使の、いける神の印を持ちて日の出る方より登るを見たり。

イエス之御霊教会の信者で教会に通っている方なら、何方でも御存じの聖言である。

「イエス之御霊教会は、預言の示す末の日に出現すべき使徒教会の復興したる真のイエス・キリストの教会なり。御霊の住み給う神の宮なり」 と初代監督村井 じゅん師が 「真の教会」 で述べられている如く、実に聖書の預言に応じて神が日本に興し給いし教会である。その預言の一つがここにある。

ヨハネ黙示録は、預言の書である。平面的にはキリスト教の歴史を記しているが、それに止まらず立体的には御使いが働き、サタンが邪魔をし、それを乗り越えて神の御計画が着々と押し進められていく様が画かれている。

黙示録7章には正に救いの時代である今日の教会の有様が記されているのである。

ここでヨハネは、四人の御使が地の四隅に立って、地の四方の風を引き止めて、地にも海にも諸々の樹にも風を吹かせなかった様を見た。

これは何か。「平和」である。しかも単なる平和ではなく、活ける神の真の福音を宣伝える機会を与えるために、神が与えて下さった平和な時である。

かつて我々は世界大戦を経験した。その時代には自国を出て他国へ行くなど略不可能であった。今は、世界的に平和な時代であり、一部の国を除いて殆どの国へ聖書とパスポートを持って行くことができる。

「全世界を巡りて凡ての造られし者に福音を宣伝へよ」 -マルコ伝16:15-

と宣給いし主は、その目的達成のために全世界を開かれた状態に保っておられるのである。

この時代に、主は一人の御使いを用いて世界伝道を行わしめるのである。而してその御使いとは、いける神の印を持つ者であり、日の出る方より登る者を指している。

「いける神の印」とは何か。

「彼を信じて約束の聖霊にて印せられたり」 -エペソ書1:13- とあり、

「神はまた我らに印し、保証として御霊を我らの心に賜へり」 -コリント後書1:22 とあって聖霊の賜物を戴くに外ならない。

そして「日の出る方より登る者」とは誰か。

これ正しく、日の本の国、即ち日本から出る福音の使者を指しているのであって、神が日本に興し給うた御霊の注がれし教会、その名も 「イエス之御霊教会」 と主が名づけられた我らの教団である。

主は、末の世に真の教会を興すにキリスト教が盛んだと思われる欧米を選ばなかった。却って遠き地、東洋の果てなる日本を選ばれた。その理由は如何。

先ず、既成のキリスト教の過てる頑迷な教理、神学に害されていない国であること。素直に純粋に福音を受け入れる素地があることといえる。

また、聖書の預言の成就せんためである。

ノアの息子セム、ハム(カナン)、ヤぺテの中、誰が神を信じたか。

セムの神エホバは讃むべきかなとあり、神ヤぺテを大いならしたまはん、彼はセムの天幕に居住はん -創世記9:26,27- とある如くである。

また、

たれか東より人をおこしゝや -イザヤ書41:2  

我が名をよぶものを東よりきたらしむ ー同41:25ー

われ東より鷲をまねき 遠国よりわが定めおける人をまねかん 我このことを語りたれば必ず来らすべし 我このことを謀りたればかならず成すべし -同46:11-

と預言されている如く、主は先ず以って、初代監督村井じゅん師を選び、従わしめ、聖書の全ての真理を示し、断行する器とし、全世界に真の福音 ”水と霊” を持ち行く使命を我らに与えてくださった。

我らは、この使命のために忠実でありたいと願うのである。

聖餐式

● ヨハネ伝6:47-59,63

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● ピリピ書3:20,21

20 我らの國籍は天に在り、我らは主イエス。キリストの救主として其の處より來りたまふを待つ。 21 彼は萬物を己に服はせ得る能力によりて、我らの卑しき状の體を化えて己が榮光の體に象らせ給はん。

● ヨハネ伝14:1-6

2 わが父の家には住處おほし、然らずば我かねて汝らに告げしならん。われ汝等のために處を備へに往く。3 もし往きて汝等の為に處を備へば、復きたりて汝らを我がもとに迎へん、わが居るところに汝らも居らん為なり。

★ チコ在住のフランス教会の信者であるS兄弟のお父様が天に召された。

兄弟の実家は札幌にある。

お父様は18年前に兄弟の導きによって道央教会で救われた。それはS兄が人形劇の学びのために夫人であるK姉妹を伴い、札幌を発ってチコへ移り住んだ三カ月後のことであった。

その時、お母様は重病で入院中であったが危篤になった。兄弟は電話で、至急お父様に教会に行ってお母様の為に祈ってもらうように、そしてその時洗礼を受けるように勧めたのである。こうしてお父様は水と霊のバプテスマを受けて救われた。

それと同時に兄弟も急いで単身帰省したのだった。数日後にお母様が召され、教会で告別式が行われ、それに先立ってお父様が、お母様のために身代わり洗礼を受けたのだった。(お母様は洗礼を受けたいと望んでいたのである。)

        *    *    *    *    *

お父様は、ここ一、二年入院生活をされていたが、このたび天に召されて行かれた。後添えの奥様 (水と霊を受けて救われている) とその娘さんが最後までお世話をし看取った。

兄弟から国際電話で「父が危篤です。お祈り下さい」との知らせを受け、私たちは病院へ急行し、枕辺で心配しているご家族を励まし、油を注いで神癒祈祷をした。

一旦帰宅し、なおも祈っていると程なく兄弟から二度目の電話で「父が今召されました」と知らせがあり、教会で葬儀の全てをして欲しいと依頼を受けた。

再度病院に駆けつけ、病いとの戦いを終えて静かに眠られたお父様の霊を平安のうちに御国に入らしめ給えと主にお祈りし終えると、急に祝祷をしたい気持ちになったのだが、その時、内なる御霊が立ち上がり祝祷をされるという不思議な体験をしたのである。

二日後、S兄弟の帰省を待って教会に親族が集り前夜祭と告別式を行った。

式の最後の挨拶を兄弟にして頂いた。

「本当は、家族で一緒に告別式に臨みたかったが、飛行機の空きはずっと一席だけだったので、神様が一人で行くように導いておられるのが分かった。

プラハを発ってパリ、羽田、札幌と乗り継いで来たのだが、ヨーロッパは大雪で欠航が多いなか予約便に無事に乗れて感謝だった。

フランスの上空に差し掛かった時、幻を見た。それは召された父が、母と会っている姿だった。自分は帰国の手配や準備で慌ただしく、気持ちが張りつめていて心の整理も出来ぬまま機上の人となったのだが、両親が天国で再会している姿を見て初めて泣いた。

懐かしい母の姿、そして今は病から解き放たれて天国の喜びを味わっている父の姿を見て、一人息子の自分は、

「僕も、そちらへ入りたい」と言った。

すると、「Nよ、お前も、Aも (後添えの奥様) まだやることがあるではないか、こちらへ来るのはまだ早い」と声が返ってきた。

そうだ、やることが沢山あるんだ・・・・・。」と。

水と霊の福音の何と素晴らしきことよ。とても良い証だった。

   - フランス教会の村上先生方の御加祷に感謝します。ー

● ピリピ書1:20-27上

21 我にとりて、生くるはキリストなり、死ぬるもまた益なり。22 されど若し肉体にて生くる事、わが勤労の果となるならば、(いづれ)を選ぶべきか、我これを知らず。23 我はこの二つの間に介(はさ)まれたり。わが願いは世を去りてキリストと偕に居らんことなり、これ遙かに勝るなり。24 されど我なほ肉体に留まるは汝らの為に必要なり。25 我これを確信する故に、なほ存(ながら)へて汝らの信仰の進歩と喜悦(よろこび)とのために汝等すべての者と偕に留らんことを知る。

聖餐式

● ルカ伝22:1-23

    P1000571_2  与論島

ヤコブ書5:7,8

7 兄弟よ、主の来たり給ふまで耐忍べ。視よ、農夫は地の貴き實を、前の雨と後の雨を得るまで耐忍びて待つなり。8 汝らも耐忍べ、なんぢらの心を堅うせよ。主の来り給ふこと近づきたればなり。

● ヨエル書2:23

シオンの子等よ 汝らの神ヱホバによりて楽しめ喜べ  ヱホバは秋の雨を適當(ほどよく)なんぢらに賜ひ また前のごとく秋の雨と春の雨とを汝らの上に降らせたまふ

イスラエルは夏は乾期で、秋と春に雨が降るという。

秋の雨の時期に播いた種は、年を越して春の雨の時期を迎え、大麦の刈入れをして初穂の祭りを行い、その後小麦の収穫をして五旬節を祝う。

キリスト教会の歴史においても二度雨が降った。この雨とは聖霊降臨のことである。

前の雨、秋の雨とは、初代教会におけるペンテコステの日以降200年程続いた聖霊降臨であり、後の雨、春の雨とは、二十世紀に入ってから注がれた聖霊降臨であって、今や我らはこの幸いな恵みの時代、救いの時代、聖霊時代、教会時代の只中に置かれている。

イエス之御霊教会は旧教にも非ず、新教にも非ず、初代教会の復興した教会であって、真のキリスト教会は、過去、現在、未来を通じて唯一の教会である。

この教会に入るには如何にすべきか。

キリストの御霊なき者はキリストに属する者にあらず。 ロマ書8:9

と聖書は言い、また、

人は水と霊とによりて生まれずば、神の国に入ること能はず。 ヨハネ伝3:5

我に對ひて主よ主よと言う者、ことごとくは天国に入らず、ただ我が父の御意をおこなふ者のみ、之に入るべし。 マタイ伝7:21

と主イエス御自身が言い給うたごとく、水と霊のバプテスマを受け、神が定められた確実な救いに与ることである。

ヨハネ黙示録3章14-22節には、現代キリスト教会の有様が記されている。

16 かく熱きにもあらず、冷かにもあらず、ただ微温が故に、我なんぢを我が口より吐出さん。

と。主は、また 

我は火を地に投ぜんとて来たれり。此の火すでに燃えたらんには、我また何をか望まん。 ルカ伝12;49

 と言われた。主は我らが熱く燃えることを望んでおられる。これは肉の熱心ではなく、御霊による熱心である。御霊を受けずしては真の信仰は持ちえない。

17 なんぢ、我は富めり、豊なり。乏しき所なしと言ひて、己が悩める者・憐むべき者・貧しき者・盲目なる者・裸なる者たるを知らざれば、18 我なんぢらに勧む、なんぢ我より火にて練りたる金を買ひて富め、白き衣を買ひて身に纏ひ、なんぢの裸體の恥を露さざれ、目薬を買ひて汝の目に塗り、見ることを得よ。

火にて練たる金とは、聖書の聖言であり、白き衣とは、主イエス・キリストの名による洗礼であり、目薬とは聖霊である。

我らは、使徒と預言者の基の上に立てられた者であって、キリスト・イエス自らが隅の首石となられている。この聖書の真理に立脚し、イエス・キリストの御名による洗礼を受けて一切の罪より贖われ、聖霊の光に照らされて明るき信仰と希望と愛に満たされたキリストの証人としての道を進む者であらねばならない。

聖餐式

● ヨハネ、第一書4:9-10

10 愛といふは、我ら神を愛せしにあらず、神われらを愛し、その子を遣して我らの罪のために宥の供物となし給ひし是なり。

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● ヨハネ伝9章

1 イエス途(みち)往くとき、生まれながらの盲人(めしひ)を見給ひたれば、2 弟子たち問ひて言ふ 『 ラビ、この人の盲目(めしひ)にて生まれしは、誰の罪によるぞ、己のか、親のか 』 イエス答へ給ふ 『 この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業の顕れんためなり。・・・』

この世の中には、常人とは異なるハンデキャップを持った人が多くいる。そのことで本人が劣等感を抱いたり、いじめの対象になったりして、苦難の道を歩むことも多い。

一昔前までは 「かたわ者」 などという意地汚い言葉がこういう人たちに向けられていたが、今は差別用語として避けられるようになり、健常者に対し、心身の障害者と呼ばれるようになった。これは社会の良識であると思う。

ここで、主イエスと弟子たちが一人の盲人に出会う。彼は働くことができず道端に坐して物乞いをしていた。弟子たちはイエスに「誰の罪で生まれつきの盲人になったのか」と問うた。原因があっての結果だ、と思っての事だろう。

「因果応報」という言葉がある。仏教用語なのだそうだが、前世の悪行がたたり、宿命としてこうなったのだから諦めるより外ないと言うことだ。以前伝道に行った先の人が、目の前にいる猫を指して 「この猫は可哀相だ。きっと前世は悪い事をした人に違いない。だから今猫になって人から餌を貰って生きているのだ」と真顔で言ったのには驚いた。

イエス様はこう答えられた。「本人が罪を犯したからでも、親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人の上に現れるためである。・・・」と。

そしてイエス様は地に唾し、泥を作って彼の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。エルサレムには、ほかにも池があった。しかしイエス様は「シロアムの池」と指定されたのである。それは、シロアムとは 『遣わされた者』 という意味であって、天の父から世の救い主として遣わされた主イエス・キリスト御自身を指しているからである。ゆえに人は皆、救われるために、シロアムなる主イエス様の許に行かなければならない。

彼は信仰をもって主の御言葉に従がい、杖を突き、手探りでシロアムの池へ行き、そして目を洗った。ああ何たる歓喜か! 彼は生まれて始めて光を見たのだ。

キリスト教には諦めはない。なぜか。神は生きておられるからだ。主イエス様は我らの罪の贖いのために十字架にかけられて死なれたが、聖書の預言に従い三日目に死人の中から甦り、天に昇られて、そこから聖霊を注いで我らの中に住んで下さるからだ。だから神は愛なのだ。生命なのだ。光なのだ。希望なのだ。

彼はイエス様を信じないパリサイ人から迫害を受ける。信ずれば除名するというのだ。しかし彼はこれらの人々に向って言った

『我はただ一つの事を知る。即ち我さきに盲目たりしが、今見ゆることを得たる是なり』

ー25節 と。

得たる確信の大きさよ。我らも彼のように大胆にイエス・キリストを証していこう。

聖餐式

● コリント前書10:16、17

17 パンは一つなれば、多くの我らも一體なり、皆ともに一つのパンに與るによる。

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観劇   イ オ ラ ン タ ーIolantaー 

S 兄弟のお招きを受けて、札幌教育文化会館で開かれたチャイコフスキー作曲:歌劇 『イオランタ』 のリハーサルを観る機会を得た。

このたびは、S 兄弟の演出により、オペラ歌手と室内楽団員と人形劇役者の三者が一体になった劇作りである。日本では珍しいが、外国では表現の一手法として用いられているそうである。

主人公 『イオランタ』 は盲目の姫である。父レネ王に愛されて幸せな日々を送り、自分が盲目であることに気付かない。美しい音楽を聴いて涙が流れる。『目とは涙を流すためにあるの?』 と、レオランタは訊く。

やがて、騎士ボデモンが姫の前に現れて花をささげるが、姫には花の色が見えない。盲目であると知ったボデモンは、イオランタに 『光は美しいもの。神の創れるもの』 と告げる。

医師ハキアの治療を受けることになったイオランタ・・・・・。

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★ 主は神の器を送ってくださり、御言葉を沢山頂きました。感謝です。

    「預言は教会の徳を建つ」 コリント前書14:4ー 

= 教会に集うことは大切なことです、個人の家でお祈りをしているからこれで良いという人がいます。でもそれは信仰生活の一部分です。教会は神の家であって礼拝する場所です。

また教会はキリストの体です。私達がこの地上にあってキリストに触れようとするならば、教会にくるより外に道はないのです。教会に来なければ損をします。というのは教会には特権が置かれているからです。その一つは主とのお交わりと、聖徒の交わりです。これをしていなければ天国に行った時にひとりぼっちで寂しい思いをしなければならないかも知れません・・・・。

また教会には人事百般の祝福というのがあります。これも教会に来なければ受けられません・・・・。

教会に来て救われる人は多いです。しかし教会に集って信仰生活をする人は少ないです。集う人の数は氷山の一角に過ぎません。でもこの僅かな信者の皆さんがイエス様にとって大切な人たちなのです・・・・。

聖書はこの僅かな信仰者たちを「遣れる者」と呼んでいます・・・・。

● イザヤ書1:9

萬軍のヱホバわれらに少しの遺(のこ)りをとどめ給ふことなくば我儕(われら)はソドムのごとく又ゴモラに同じかりしならん

● ロマ書11:3,4

われバアルに膝を屈めぬ者、7千人を我ために遣し置けり

● ゼパニヤ書3:12,13

われ柔和にして貧しき民をなんじの中にのこさん 彼らはヱホバの名に依頼むべし

● ゼカリヤ書8:11,12

葡萄の樹は果を結び 地は産物を出し 天は露を与へん 我この民の遣餘者(のこれるもの)にこれを盡(ことごと)く獲さすべし

聖餐式

● ルカ傳22:7ー23

● コリント前書11:23ー26

       Photo 大通公園

● マタイ傳14:13~21

18 イエス言ひ給ふ 『それを我に持ちきたれ』  19 斯くて群集に命じて、草の上に坐せしめ、五つのパンと二つの魚とを取り、天を仰ぎて祝し、パンを裂きて、弟子たちに與え給へば、弟子たち之を群集に與ふ。 20 凡ての人、食ひて飽く。

イエス様が為し給うた奇蹟の一つである。

イエス様の話を聞きに、病の癒しを求めて大群集がやって来た。夕方になり弟子たちは気を揉み、イエス様に「群集を去らせて、食物を買わせ給へ」と言った。しかしイエス様は「かれら往くに及ばず、汝ら之に食物を與へよ」と言われた。

ヨハネ傳6:5~14によれば、イエス様がピリポに「われら何処よりパンを買ひて、此の人々に食はすべきか」と言ひ給ふた。斯く言ひ給ふはピリポを試むるためにて、自ら為さんとする事を知り給ふなりとある。

そして、一人の童子が捧げたパン五つと肴二つを、イエス様が手に取って祝福して裂くと増えに増え、5千人以上の人々の空腹を満たした。神の業を見て味わった大群衆に驚きと喜びを与えたのである。

● ヨハネ傳6:47ー59,63

51 我は天より降りし活けるパンなり、人このパンを食はば永遠(とこしへ)に活くべし。我が與ふるパンは我肉なり、世の生命(いのち)のために之を與へん

53 イエス言い給ふ『まことに誠に、なんぢらに告ぐ、人の子の肉を食はず、その血を飲まずば、汝らに生命なし。54 わが肉をくらひ、我が血をのむ者は永遠の生命をもつ、われ終りの日にこれを甦へらすべし。55 (それ)わが肉は眞の食物、わが血は眞の飲物なり。』

主イエス様は、我らの罪の贖いのために、自ら身を棄て、十字架上に磔刑され、貴い血を流された。

神の独り子であるイエス・キリストが、我ら罪ある世界万民を救うために貴いお身体を裂かれたのである。そしてその肉体から流れ出でた御血によって、我らは罪赦されたのである。

彼はわれらの愆(とが)のために傷けられ われらの不義のために砕かれ みづから懲罰(こらしめ)をうけてわれらに平安をあたふ そのうたれし痍(きず)によりてわれらは癒されたり   -イザヤ書53:5-

とある如くである。

この 「わが肉を食ひ、我が血を飲む」 とは何か。具体的に言うならば、主の聖餐に与ることである。主イエス様の死を記念し、主の愛が如何に大きく広く深く豊なものであるかを、この身をもって味わい知ることである。これは精神的あるいは表面的な信仰の遠く及ばぬところである。

初代キリスト教会では、どのようにしていたのだろうか。 聖書を読むと、

● 使徒行伝2:41ー47 には、こう書かれてある。

42 彼らは使徒たちの教を受け、交際(まじわりをなし、パンを擘(さ)き祈祷をなすことを只管つとむ。・・・ 46 日々、心を一つにして弛みなく宮に居り、家にてパンをさき、歓喜と眞心とをもて食事をなし、47 神を讃美して、一般の民に悦ばる。斯くて主は救はるる者を日々かれらの中に加へ給へり。

初代教会の信者達が、家の教会に集り、使徒たちの教を受け、讃美と、祈祷と、パンを擘いて(聖餐に与ること)、主イエスの恵を喜び、感謝していた日常の姿を、ここに見るのである。

パンを擘くとは、食事のことではない。食事は食事として別に書かれてあることに刮目したい

今の世は聖餐式に対する意識が、初代教会時代に比べて希薄なのではなかろうか。初代教会時代は、眼前に起こったイエス様の死と復活を目の当たりにし、身も心も震わすほどに、救われた感謝と喜びが大きかったのだと思う。だから毎日のように集会を開いてパンを擘き、主に対する感謝の念を現したのだと思う。

今この末の時代に真の教会の復興した教会を標榜する我らは、愈々初代教会の聖徒があゆみし如くあらねばならない。

聖餐式

上記の聖言を拝読する

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★ 長万部(オシャマンベ)の大学に I 姉妹が就職したので、祝福を祈るため、7日の日曜聖会の後、ご両親の車で一緒に出かけました。秋晴れの天候に恵まれ、道央自動車道路沿いの紅葉を愛でつつ長万部に着きました。アパートと車の聖別祭をし、合わせて姉妹自身のお仕事のため感謝祭・祝福祭を行いました。翌日から3日続きの雨模様の天気になったので、神様が良い時を与えて下さったと感謝しています。

★ 救われている E 画伯から所属する会の展覧会の案内状を頂いたので、大通公園の近くのその名も大通美術館に観に行きました。白地に赤で大小の楕円状の輪を幾つも描いた抽象画です。(素晴らしい作品をお見せできないのが残念です)。一通り展示されている絵や彫刻や書や写真を全部見終えた上、E 画伯の姿もみえないので、帰ろうかなと思っていると、横から声をかける人がいます。みると いつ来られたのでしょうか、E 画伯ではありませんか。お会いできました。神様のお導きだなと思いました。

E画伯から、この度の展示作品の説明や、これから目指す作品作りの抱負など熱っぽくお話を聞かせて頂き、こちらからもイエス様の証を語り,霊の良きお交りが出来たことを、主に感謝しています。

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