道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

カテゴリ: 2014-聖言・証

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 小樽で遇って救われたロシアの船員ワレリー兄弟(右)を尋ねてウラジオストック伝道に行きました 1996.8

ヱホバに感謝せよ ヱホバは恩惠(めぐみ)ふかく その憐憫(あわれみ)とこしへに絶ることなし -詩篇118:1-

今年最後の安息日礼拝は、感謝祭となりました。

まだまだ戦いの中におかれている人、祈り続けている人もいます。 手放しでは喜べない人もいることでしょう。 ですが、「凡てのこと感謝せよ」とあります!ですから、先ずは重荷を置いて、神に感謝しましょう。

今年も色々なことがありました。教会日誌を見たり、日記を読み返してみたりして、この365日がどんなに価値あるものだったか振り返り、反芻しています。二度と訪れない過去となる今年も、切り株に残された年輪のようにくっきりと痕跡を残し、決して忘れることのできない一年であったと思い、なんら無駄はなく、寧ろ有意義な一年であり、次の年に繋がる一年でもありました。

何よりも幸いなことは、神と偕に歩んだ一年であること、と言いますか、神が先立ち、その跡に従って歩むことができたこと・・・。これが楽しくもあり、嬉しいことでもありました。

毎週、安息日礼拝や日曜聖会で兄弟姉妹方と共に、主を崇め、霊と真の祈りをなし、霊讃歌をもって讃美し、聖書の御言葉を読み、霊の糧を与えられて、「我ら此処に居るは善し」 と変貌山で主を拝する心地が致します。-マタイ17:1~8-

また、大聖会に出席し、世界に繋がる聖霊の働きを見聞きして、イエス・キリストは永久までも変わることなしと実感させられ、イエス之御霊教会教団こそ世界に冠たる、真の全きキリストの新婦(はなよめ)なる教会、主の再臨の日に天に携えあげられる教会なることを体得させられました。

道央イエス之御霊教会も、世界伝道の一環に与るべく小樽港を中心に1992年以降、外国人伝道を続けており、1110回を重ねました。この間、ロシア人を始め、ウクライナ人、中国人、フィリッピン人など多くの外国人が水と霊との救いに与りました。「此の火すでに燃えたらんには、我また何をか望まん」-ルカ12:49-と、更に多くの人々が救われますように願います。

インターネットでの伝道も、ホームページを見て教会を訪ねてきて救われる人がおり、礼拝に集う方がでてきましたので感謝です。

一方、ブログは, 「道央イエス之御霊教会ブログ」と改題して再出発しましたが、連日、多数のアクセスを頂き感謝です。 検索順位が1順目の上位に固定すれば、閲覧者の方々のために更に便利かと思っています。
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( ※ 「道央イエス之御霊教会」で検索すると1順目ですが、ズバリ「道央イエス之御霊教会ブログ」で検索すると、なぜか4順目?ですよ?? )

もう一つのFC2ブログ「御霊の声」は、証-43「北海道大聖会の開催」を12月25日に発行しました。回顧録ですが、ご覧いただければ感謝です。

今年もあと残すところ僅かとなりました。感謝をもってこの年を終え、希望に溢れた新年を迎えたいと思います。一年間ありがとうございました。 ハレルヤ!

寧ろ御霊に満たされ、詩と讃美と霊の歌とをもて語り合ひ、また主に向ひて心より且うたひ、かつ讃美せよ。凡ての事に就きて常に我らの主イエス・キリストの名によりて父なる神に感謝し、キリストを畏みて互に服へ -エペソ5:18~21-




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 友人であるO 牧師の奥さんが暫く前に天に召されていた。その人も同労者である。

このことを知ったのは最近のこと。

「なんで知らせてくれなかったんだ」という思いと、「何があったんだ」という思いとがごちゃ混ぜになって電話をかけた。

事情が分かった。

「疲れたから横になるわ」と言って奥さんが床に就いた。それが最後で傍に居ながら気が付いた時には冷たくなっていたという。彼も急な事態の展開で頭の中が一杯になり、周章狼狽の状態に陥った事だろう。

後は、書くことは止そう。人の命は神様が握っている。

生れるに時あり 死ぬるに時あり 神の為したまふところは皆その時に適ひて美麗(うるは)しかり 神はまた人の心に永遠をおもふの思念(おもひ)を賦(さづ)けたまへり -伝道之書3:11-

愛する者が突然いなくなった悲しみは体験した者でなければ分からない。

私たちの周囲のクリスチャンにも高齢者が沢山いて、永年連れ添った伴侶が召されていく。先に逝った方は天国の喜びに入るのだが、遺された方は、一人で残りの人生を歩まなければならない。健気に生きている人もいるが、寂しさを囲っている人もいる。その思いを語れる相手がいる人がいれば良いが、なかなか理解してくれる人はいない。ただ神様は全てご存知と信じて祈るだけだ。

年をとって配偶者を失う人と、若くして失う人とがいる。そのどちらが良いのか、これも神の御意次第だが、後者の方が厳しい年月を経た分、多くの人の悩みを親身に聞いてあげる相手になれるように思う。

今日の安息日礼拝の聖言の一つはこうである。

エホバの言(ことば)われに臨みて言ふ 人の子よ我頓死をもて汝の目の喜ぶ者を取去らん 汝哀(なげ)かず泣ず涙をながすべからず 聲をたてずに哀け 死人のために哀哭(あいこく)をなすなかれ 冠物(かざりもの)を戴き 足に鞋(くつ)を穿べし 髭を掩ふなかれ 人のおくれる食物を食ふべからず 朝に我人々に語りしが 夕べにわが妻死ねり 明朝(あくるあさ)におよびて我命ぜられしごとくなせり 
-エゼキエル24:15~18-

旧約時代の預言者エゼキエルの人生は厳しいものだ。最愛の妻が死んでも泣いてはならないと・・・。

神が妻として喜ぶ者として選んだイスラエルは不信仰の故に亡んでいく。その兆(しるし)として預言者の愛する妻は死ななければならぬ。預言を成就するために愛する者が死んでも泣いてはならないのだ。 きつい!!

けれども今は、新約の時代、恵みの時代である。

愛する者との死別は肉に於いてはつらく哀しい。だが霊に於いてはキリストの復活と再臨の望みがある。ここに慰めがある。

されど我らの國籍は天に在り、我らは主イエス・キリストの救主として其の處より來りたまふを待つ。彼は萬物を己に服はせ得る能力によりて、我らの卑しき状の體を化へて己が榮光の體に象らせ給はん。 -ピリピ3:20,21-



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凡そおのれを高うする者は卑うせられ、凡そおのれを卑うする者は高うせらるるなり 
-ルカ14:11-

バビロンの王ネブカデネザルは、夢を見た。一本の高い樹が天に届くほどに聳え立ち、枝を伸ばし葉をつけ、実が豊かに実り、多くの鳥が枝に巣をつくり、木陰に獣が宿り、その樹はこれらの物を養っていた。 夢は、続いた・・・・

一人の見張りの天使が降ってきて、大声で「この樹を切り倒せ、鳥も獣も追い払え、切株に鎖をかけて、夜露に濡れるにまかせよ。その心は変わり、人間の心を失い、獣の心が与えられる。そして七つの時が過ぎる。これは天使らの決定である。それは、至高者 人間の國を治めて自己の意のままにこれを人に与へ また人の中の最も賤しき者をその上に立たまふといふ事を一切の者に知らしめんがためなり」 と告げた。 
 -ダニエル4章-

王は、目覚めて後、夢の意味を知ろうとして智者を集めて問うたが、誰一人解くものがいなかった。時に、ダニエルが呼ばれて王の前に立った。彼は神の御霊に満ち、智慧があって凡ての神妙秘密を解くことができた。

彼は答えて言った。「王よ、その樹とはあなたです。あなたは、その樹のように強くなり、勢いは盛んになり、権威も地の果てに及びました。しかし、神を恐れなければたちどころに凡てを失い、世を離れ、獣のように草を食べ、夜露に濡れるでしょう。そして七つの時を経たのち、至高者が人間の國を治めて、己の意のままに人に与えることを知るに至るでしょう。樹の切株が残されたように、あなたは天は主たりと知るときまで、天はあなたから離れるでしょう。 ですから、私の諫めを聞き入れ、善を尽して国を治めてください、と。

果たせるかな、一年後に此のことはネブカデネザル王の身の上に起った。彼は王宮の上を歩いている時に、「この大いなるバビロンは我が力をもって建てた都である。我が威光を輝かすものである」と誇らかに言った。

この言葉が終わらぬうちに天から声が出て、王位の失脚と、地に流離う者となることと、七つの時を経るまで夜露に濡れて見る影もない姿になることを告げられ、そのようになったのである。

七つの時を経てのち、彼は我に返り、至高者なる神を崇めて、凡ての権威・権能は神より出ると告白したのである。茲に至って国の栄光も彼の尊厳と光輝も元のように返り、大臣らに乞われて復位し、前よりも著しく威光を増したのであった。

この一事をみても、神の目は絶えず人の上に注がれ、高ぶる者は低くされ、謙る者は上げられることを知るのである。故に常に謙って主の用に適うようにすることが大切だと思う。

主の弟子であるヤコブとヨハネの母は、主に求めて言った「わが二人の子が汝の御國にて一人は汝の右に、一人は左に坐せんことを命じ給へ」と。彼女の母性愛がこう言わしめたのであろうか。だが他の弟子たちはこれを聞いて怒った。主は戒めていわれた。

「大いならんと思う者は、汝らの役者となり、首たらんと思う者は汝らの僕となるべし。斯くのごとく人の子の來れるも事へらるる為にあらず、反って事ふることをなじ、またおほくの人の拯贖(あがなひ)として己が生命を與へん為なり」 -マタイ20:26~28-

    
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12月14日は、衆議院議員総選挙の投票日。誰が議員として生まれるのか?価値ある一票が投ぜられるように祈る!







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萬軍のエホバよ なんぢの帷幄(あげばり)はいかに愛すべきかな わが霊魂(たましひ)はたへいるばかりにエホバの大庭をしたひ わが心わが身は いける神にむかひて呼(よば)ふ -詩篇84:1,2-

詩篇84篇は、ギテトの琴に合わせて指揮者によって歌われたコラの子の歌である。

詩篇そのものは、歌であり、讃美であり、祈祷である。 150篇中、ダビデの作が73あり、アサフの作、コラの子の作、ソロモンやモーセ、エタンの作がある。作者不詳も50あるが、ダビデの作が多数含まれていると考えられている。

これらの詩には曲が付いて歌われた。五線紙の無かった昔のことゆえ、どのような節回しで歌われたのか今日知る由もないが、神を心から崇めて歌ったであろうことは歌詞である詩から読み取れる。 

文中に「セラ」という小さな文字が2ヵ所ある。これは、音楽用語で、「少休止符」と考えられている。1~4節、「セラ」、5~8節、「セラ」、そして、9~12節を歌って終了の形である。  詩篇には「セラ」が71ヵ所あり、ハバクク書3章の祈祷書にも3ヵ所ある。

詩篇84篇は、「新約の雛形は、旧約である」の原則から考えて、教会の事を描いていると考えられる。

上掲の聖句は、主なる神を慕って安息日礼拝をするために教会に集う聖徒方の思いを描いている。主イエス・キリストは安息日毎に会堂に入り、聖書を繙かれた。初代教会の使徒たちも安息日毎に会堂に行って、主を証した。今日の我らも鹿の谷川の水を慕いあえぐが如く、安息日毎に教会に集い、礼拝を守り、主より祝福を受けている。

その力なんぢにあり その心シオンの大路にある者は福(さいはひ)なり かれらは涙の谷をすぐれども 其処をおほくの泉あるところとなす  また前の雨は もろもろの恵みをもて之をおほへり -5,6
節-

ここを読むと、詩篇23篇4節の 「たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害(わざはひ)をおそれじ  なんぢ我とともに在せばなり」 を思い出す。 涙の谷、死のかげの谷は、この世に満ちている。その中で苦しんでいる人たちが大勢いる。でも主は、私の所に来なさい。あなたを休ませてあげようと言ってくださる。その御声に従って教会に来られるならば、救いの道はここにある。

なんじの大庭にすまふ一日は 千日にもまされり われは悪の幕屋にをらんよりは 寧ろわが神のいへの門守(かどもり)とならんことを欲(ねが)ふなり -10節-

神の家である教会に集うことは楽しいことである。心一杯主を崇めて讃美し、祈ることは幸いである。御言葉の味わいはいかばかりであろう。他に比べるものは一つとしてない。

神の隣在のある教会、神の御霊に満ち満ちている教会、主が興された教会、神が地上に置かれたオアシスであるイエス之御霊教会に来られ、天来の豊かな祝福を受けて頂きたく思います。
 


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我また天より聲ありて『書き記せ「今よりのち主にありて死ぬる死人は幸福(さいはひ)なり』御霊も言ひたもふ「然り、彼等はその労役(はたらき)をやめて息(やす)まん。その業これに随ふなり」』と言ふを聞くけり。 -ヨハネ黙示録14:13- 

今週は、教団に在っては A 先生が召天されて、告別式が行われた。また道央教会にあっては、聖徒が召されて告別式が行われた。 主の御霊の導かるるままA先生の御葬儀には、ダビデが悲しみの歌をもて、サウルとヨナタンの死を惜しんで記した弓の歌より「嗚呼 勇士(ますらを)は仆れたるかな 戦の具(うつわ)は失せたるかな」-サムエル後1:27-の聖言を引用して弔電をお送りし、哀悼の意を表した。先生は常に大聖会を重んじ、水と霊の福音の使命に生きた良き教団人であられた。

道央教会で召された聖徒のことを言うと、96歳の姉妹である。このU 姉妹を知ったのは、昭和33年9月のこと。当時、札幌教会の信者であられた。始めは世の教会の信者であったが、主の導きに從い、移って来られたとのことだった。

その姉妹宅で家庭集会が開かれることになり、K牧師に誘われ、沖縄から来られたN 師と共に出席したのだが、この集会は私にとって運命的なものとなり、神の声を聞き「イエス之御霊教会教団」の牧師として踏み出す転機となったのである。

私が江別教会の牧師になった時に、重荷を持って匿名で献金を送り続けてくださったのもこの姉妹であった。 また札幌教会の御用の応援に行った時には、他の信者方に呼びかけて献金を募り、副牧師先生の手を通して与えて下さるなど、細やかな気遣いをなさる姉妹であった。

教会が別であるから、互いに弁えを持ち、大聖会などでお会いした時に挨拶を交わす程度であったが、いつの頃からか疎遠になっていた。

それがである。2年ほど前に道央教会のB姉が施設に入居している90歳の母親を看に行った時のこと、U姉妹の娘さんと玄関でばったり出会ったのである。親同士も娘同士も元々は同じ教会に通っていた仲であった。而も、今はどこの教会にも行かず、20年は経過しているという。そのことから交わりが始まり、皆さん道央教会に集うようになったのである。

ただ、娘さんは集われるようになったが、U姉妹だけは高齢で体が不自由なこともあって、教会に来れなかったのだが、全てに時あり。このたびご召天し、教会に搬送されてきて、人生の最後のひと時を教会で過ごされたのである。

施設で召される直前には「ハレルヤ」と声を出して祈り、その後眠るが如くに召されたとのこと。駆け付けた遺族の方々はほとんどが水と霊を受けている方々ばかり。そして、時間の多少にかかわらず、最後を愛する主の教会で天に送られたことは姉妹の喜びであったと思う。姉妹の霊に平安があるようにと主に祈った。

姉妹の愛歌は、聖歌の「キリストにはかえられません」と聞き、皆で歌ったのである。

姉妹が大好きで、娘さんやお嫁さんに絶えす語っていた聖書の御言葉は、
「神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の為には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」-ロマ8:28-であった。

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お 礼    ブログ人の「道央イエス之御霊教会~教会だより」は、予告通り11月30日を以って終了しました。長い間、ご覧いただきありがとうございました。
以後は、こちらの『道央イエス之御霊教会ブログ』で継続しておりますので、宜しくお願い致します。
                                                        - 管理人-   

          時計台


來れわれらエホバにかへるべし エホバわれらを抓劈(かきさき)たまひたれども また醫(いや)すことをなし 我儕(われら)をうち給ひたれども またその傷をつゝむことを為したまふ可ればなり エホバは二日ののちわれらを活きかへし 三日にわれらを起せたまはん 我らその前(みまへ)にて生きん -ホセア6:1,2-

主イエス・キリストの復活を預言する聖言である。また、主に立ち帰る者に対する癒しの聖言でもある。

この書を記したホセアは、北王国イスラエルのヤラベアム二世の時代に用いられた預言者である。 王国は主なる神を離れて、偶像で満ちていた。 彼らは「淫行の霊」の衷にあったのだった。 -5:4-

時に主は、ホセアに言われた 「淫行の婦人を娶り、淫行の子らを得よ」と。 誰か好んでこの道を取るだろうか。しかし預言者ホセアは主に従い、ゴメルを妻にした。そして生まれた長子を、神はエズレル(神が種を蒔く)と名付けられた。続く長女は、ロルハマ(憐れまれぬ者)と名付けられ、ニ男は、ロアンミ(わが民にあらざる者)と名づけられた。 ああ、悲惨なるかな!その名は正しく淫行の霊に圧せられたイスラエルの様を表していた。 -1章-

その中にあって預言者ホセアは、イスラエルの王と民に向かって叫ぶ  「なんんじの神に帰れ」 と。

われ人にもちゐる索(つな)すなはち愛のつなをもて彼等をひけり -11:4-

我らの主なる神は慈悲深い神である。イスラエルの民は、その犯した罪の故に異邦の国へ捕えられて行くが、 主は、時を定めて彼らを解放し、二度と同じ過ちを犯さぬようにされたのである。

  
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お知らせ FC2ブログ 御霊の声 証-42 献堂式 を載せました。 昭和61年の最初の会堂の証です。

          はつゆき  初積雪


汝らみな心を同じうし互いに思い遣り、兄弟を愛し、憐み、謙遜(へりくだり)、悪をもて悪に、謗りをもて謗りに報いゆることなく、反って之を祝福せよ。汝らの召されたるは祝福を嗣がん為なり。 -ペテロ前3:8,9-

聖書は、神の祝福について、アブラハムをハランの民の中より選んで、カナンの地に導き、その地を与えて嗣業を得させ、独り子イサクがこれを継ぎ、更にエサウとヤコブについては、弟ヤコブを選んで嗣業を与えたと記している。

また聖書は、予め福音をアブラハムに告げて 『なんぢに由りて、もろもろの国人は祝福せられん』
と言われた。この祝福は、同じ信仰の跡を踏む私たちの上に成就されている。

これアブラハムの受けたる祝福のイエス・キリストによりて異邦人におよび、且われらが信仰に由りて約束の御霊を受けん為なり。 -ガラテヤ3:14-

神の祝福は、先ず選ばれること、水と霊の全き救いに与ること、次いで主の御言葉に従うことである。サウル王は選ばれはしたが、従わなかったために捨てられ、御霊は離れて悪鬼に悩まされた。然し、ダビデ王は選ばれると共に、信仰をもって主に従ったので祝福され、御霊は彼の上に止まった。

教会についても同様に、初代キリスト教会は、始めは御霊を受けて祝福されたが、初めの愛を離れたために堕ちたと黙示録2:4,5に記されている。これは、信仰の堕落をした為に御霊が降らなくなったことを示している。

その後の暗黒時代を経て、今は末の世となり、聖書の預言の如く、日出る国、日本に我らの「イエス之御霊教会教団」が出現し、主より全幅の祝福を受けて「水と霊」の全き福音を宣伝えるものとして用いていて下さる。

先ず、隣人から始めて、この祝福を宣伝えていこう。


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